Shall we スキー? 小堺高志           3月8日2004年

 

それは壮大な斜面であった。空を覆った雲の切れ間から見える青空に太陽が顔を出すと、白い巨大なU字谷が眼下に広がった。氷河によって削られて出来た大きな谷を昨日降った5センチほどの新雪が覆っている。
降雪の後、今朝、開いたばかりのブラッコン氷河の大斜面。ゲレンデの向こう側にいるスキーヤーがケシ粒くらいに見える。この下には何万年も昔からの蒼い氷河が横たわっているはずである。その巨大な神の創造物に挑むようにポールを持ち直した私は谷の中へと飛び込んでいく。スキーの斜面としては難しいものではない。軽いコブがあるが上質の雪が心地良くスキーを廻してくれる。まだ残る新雪の上を谷の底に向けて息が上がるまでまっすぐにショートターンを切り続け下りてゆく。

目の前と左右に大きく広がる雪面の規模が気持ちを高め、最高の気分である。一番近いリフト乗り場まで6マイル(約10.5キロ)続くと言う私には未踏の長いコースの始まりである。

 

227日、今回 原ちゃんの都合がつかず、佐野さんと二人でこれが3回目となる北アメリカ最大のスキー場であるカナダのウイスラー・ブラッコムへ出発した。

テロ対策のため空港には2時間半前にチェックインするように言われていたが、私は幾分早く着きすぎたようで、本を読みながら佐野さんの到着を待つ。金属探知機で厳しいチェックを受け、機上の人となる。約3時間のフライトである。やがて、機長からアナウンスがあり窓からレーク・タホがみえるという。窓側に座っていた私の左下に雪に囲まれた青い湖が見える。この湖の周辺には何度か行ったことのあるカリフォルニアの有名スキー場がたくさんある。

今までの2回のウィスラー行きでは、バンクーバーに宿を取り毎日ウィスラーへ通うという方法をとったが、アフタースキーは確かにバンクーバーの方が都会で面白いが、さすがに朝は早いし、スキーの後の片道1時間40分のドライブはたいへんである。そんな訳で今回初めてウィスラーに宿を取ったのであった。

午後2時過ぎレンタカーを借りてまずは山篭りの前、バンクーバー市内の日本マーケットへ買出しに行く。フジヤ・マーケットという、バンクーバーでは一番大きいという日本マーケットであるが、エルエーのマーケットと比べたらすごく小さい、それでも佐野さんのリクエストのすき焼きと、カレーの材料と、その他いろいろ買い揃えることができた。今回は何人かお客を招く予定があるので、無駄にしないで、どのくらいの種類と量をそろえるかは私の力量である。

買い物の後、市内中心部にある“えぞぎく“へラーメンを食べに寄る。佐野さんが「ところでカレーライスのルーは?」と言われ始めて、抜かりなく買い物をした積もりだったのに、肝心のカレーのルーを買い忘れていたことに気づいた。”えぞぎく”の向かいにも小さな日本食を扱うマーケットがあるのを知っていったのでフジヤには戻らずにそのまま進む。まー、このくらいのミスは旅のスパイスとして許してもらおう。

 

食事の後、通いなれた道をウィスラーに向かう。途中方々で2010年の冬季オリンピックを目指して、道路の拡張工事が行なわれている。オリンピックの時にメイン会場となるバンクーバー、ウィスラーにはすでに冬季オリンピックを迎えるに充分な会場、練習場、宿泊所があるので、大きな建設関係の仕事としては道路の整備拡張だけでよく、今までのオリンピックのようにお金をかけて新しい施設をたくさん建設する必要のないオリンピックになるのだという。ウインタースポーツの盛んなカナダの中でも、もっとも環境的に恵まれたバンクーバーならではの話である。

今回我々の泊まるのはホーストマン・ハウスといい、インターネットで探して予約した宿である。一泊、122ドルでスキー場、ビレッジからもそんなに遠くない。

ウィスラーに着いた時には、すでにすっかり日が落ちていた。宿にはブラッコム・ウェイの4635という住所でいけるはずなのに、近くまで行っているはずなのにホーストマン・ハウスというのがない。電話をかけて聞くがなかなか要領をえない。ブラッコム・ウェイはスキー場に入っていく主道路で間違うはずはないがスキー場のところで大きくU字に曲がっており、場所によってはブラッコム・ウェイを横切り、次に出てきたのも同じブラッコム・ウェイであったりする。結局、インターネットで取っていた住所が間違っていて、実際は4653ブラッコム・ウェイなのであった。まーこれも旅のスパイスか?

 

ホーストマン・ハウスは基本的にはコンド形式の宿泊施設で、我々が借りたのは1ベッドルームに台所、リビング、バス、トイレ、でなり、リビングベッドが付いているので4人まで泊まれる。料理をするために必要な台所用品はほとんど揃っている。その他テレビ2台、洗濯機と乾燥機、暖炉、ベランダがあり、毎日掃除をしてくれる。何よりも建物が清潔で新しいのがいい。早くに予約したのでこの値段で取れたが、私が予約した翌週にはもう値段が上がっていた。

レーク・タホを飛行機から       ウイスラーへの道           ホースマン・ハウス

 

第一日目は向かって右側にあるウイスラー・サイドに行くことにして、ゲスト・サービスのカウンターで例によって半額の4日間通しのリフト・チケットを買う。マンモスと同じ会社、インターウエストが経営するスキー場なので、マンモスのシーズン・チケットを持っていると半額でリフト券が買える特典があるのである。

ゴンドラに20分ほど乗り終点で降りると、我々が何時もこの山でベースにするラウンド・ハウスというロッジがある。かなり上がったと思うのだが、この上にさらにマンモス以上の規模の山並みが立ちはだかる。スキー場の山頂はまだ先である。

ここからもっともポピュラーなエメラルドというリフトの下を足慣らしに2本滑る。

一本目は雪面がならしてあるところをゲレンデ・スキー、2本目はコースの端にあるパンプ(滑り込まれて自然にできる凸凹)のなかをモーグル。この斜面はあまり急でないところにパンプがそのまま残されているので私にはとても面白い。天候が悪く、少し雪が降っている。朝から佐野さんが、コーヒーが飲みたいと言っていたので、小休止をとるため、ラウンド・ハウスにはいって座ると佐野さんが、サングラスから眼鏡に変えようとしたら、「眼鏡の片方のレンズがない」 と言う。朝ゴンドラから降りてすぐ眼鏡をサングラスに替えたとき、ビスが緩んでいて落ちたに違いないという。ゴンドラの降り口のあたりを探すがない。雪の上では見つけにくい、おまけにこのあたり日本人のスキーをやらないおばさんの団体が観光で来ていてそこらじゅう 踏み荒らされている。結局見つからず、以降佐野さん昼間は良いが、夜もサングラスか、片目の眼鏡で過ごすことになった。初日の滑り出しそうそう、これも旅のスパイスか、このへんから旅のスパイスもかなり辛いものになってきた。

 

午後からハーモニー・リフトの周辺や、山頂にいくが、ここは最高峰でもマンモスのいつも寝ているシャモニーの高さしか標高がないので、空気が濃くて激しい運動にも呼吸が楽である。一本ピーク近くの急斜面を下りると、かなり大き目のパンプがあった。急斜面のパンプは難しいが、そこでショートターンに挑んだが足が縺れて久々の転倒、斜面の後半だったので滑り落ちずにすぐに止まってくれた。雪が激しくなってきた、でも風がないのがいい。

 

麓に下りたのは4時近かった。標高が低くなるにつれ、雪が雨に変わり、びしょびしょである。山を下る前に私の友人のロブに連絡が取れた。昨夜からメッセージを残していたのだが、彼は25日から こちらにヘリ・スキーに来ている。仕事で知り合い、マンモスでも彼とは2度ほど滑っている。一度は5年程前、彼のお父さんに自家用飛行機でマウント・ウイットニーの上を飛び越えマンモスまで連れて行ってもらったことがある。4人乗りの小型飛行機に乗ったのは後にも先にもその時が一度だけであるが、正直言って、おもちゃの飛行機のようで怖かった。

ロブたちは総勢14人で来ており、宿泊先がパン・パセフィック・ホテルと聞いていたがこの村にはそうとう多くのホテルがあるので、そのホテルが何処にあるのかあまり気に止めていなかったが、佐野さんが昨日、「パン・パセフィックってゴンドラ乗り場のすぐ前にある、スパが見えるあのホテルだよ」という。そのホテルなら名前は知らなかったが、一等地にありウィスラーで3本の指に入るくらいの高級ホテルである。ホテルのロビーでロブと会い、一杯飲みに行く。彼が案内してくれたのはビレッジにあるバッファロービルというバー。ここはウイスラー・ヘリと提携しており、店内に流れるヘリ・スキーのビデオはその日撮ったツアーのビデオである。店内にはその日飛んだスキーヤーや、パイロット、ガイドがいる。ほぼ毎年来ているロブは知り合いがたくさんいる。昨日彼は仲間5人とヘリをチャーターして、丸一日滑り、昨夜はここでパーテーをしたという。その時のスイス人のパイロットがいて、腕が良くロブ達のリクエストで途中、曲芸まがいの垂直上昇や低空飛行をしてくれたそうであるが、チャーター機であり、ロブも飛行機のパイロット・ライセンスを持っているから安全の自信がありやって貰ったのであろうが、私は機会があっても、遠慮させていただきたい。

常時、この周辺には14箇所のヘリ・スキーのスポットがあり、常にヴァージン・スノーへ案内してくれるという。日本人もカメラマンとガイドとして2人勤めていて、紹介してもらったが、彼らが言うように人生で一度はチャレンジしてみるべきものだと思う。

6時ごろ夕食の予約があるというロブと一度別れるが、今夜はすき焼きをするので後で我々のロッジに来るように誘う。

 

ビレッジ内のグロサリー・ストアでコーヒー、野菜などを買い足してホテルに戻りすき焼きをつくる。アメリカ人にしては律儀にも「メンバーの一人が誕生日なのですぐに抜け出せない、先に初めていてくれ」と7時ごろロブから電話が入る。ロブは明日帰るので無理に誘っちゃったかなーと思っていると8時を回った頃、キャブで来た。佐野さんが持ってきた吟醸酒がすぐに空く。ロブはスルメとしゃぶしゃぶが好物であるが、すき焼きは初めてだという。彼も裕福だと思うが、彼の妹の旦那が不動産屋を経営するかなりのお金持ちで今回その夫婦はパン・パシフィックのスイートに泊まって、ロブのホテル代、ヘリのチャーター代も払ってくれたという。

私もそのくらいのスポンサーが欲しいものであるが、こういうリゾートにはお金の使い方に困っているほどのお金持ちがいるのである。11時ごろ明日ロスに戻るロブと別れる。

あそこがウイスラー山頂                               ロブとバッファロービルにて

 

翌朝、ブラッコム側のゴンドラに乗ると、乗り合わせたのはロンドンからの2人組み、この後アルプスのモンブランにスキーに行くというから、彼らもまた、お金の使い方に困っている人種に違いない。山頂にリフトで着くとそこからさらに上に行くT−バーがある。T−バーとは昔は方々のスキー場で見たが、ロープの先にT字状の引っ掛けがついており、その引っ掛けを腰にあて、引っ張り揚げてもらうタイプのリフトである。氷河の上では普通のリフト用の鉄柱が建てられないのでT−バーになるのだという。そのT−バーを使ってブラッコムの最上部に行くと、T−バーから下りた人たちが次々とさらに歩いて30メートルほど登っていく。その先に何があるのかはT−バーを下りた位置からは見えないし我々は知らなかった。私がいつもの表コースを降りようとすると、佐野さんが「行ってみようよ」と言う。だまされたと思って上り始めると左側に案内板が出ていて、これがブラッコム氷河への入り口だという。コンデションのいい時しか開かず、先日の雪以来、先ほどオープンしたばかりらしい。

 

それは気持ちの良い、長いコースであった。上部の大きなU字谷を抜けると、谷はだんだん狭くなり、斜面もゆるくなる。小川の横を抜け、谷ぞいの道をとこまでも下りていく、いい加減いやになるほど下りた頃、やっとエクセレレーターのリフトの乗り場に着いた。ここまでが6マイル(約10.5キロ)だというが、麓まではここからさらに数マイルあるのである。

ブラッコム                 ブラッコム山頂から          ブラッコム氷河の入り口

 

ブラックコムには有名な7th へェーブンというコースがある。向かいにウィスラー側の山を望み、私の好きなコースである。かなり上方にあるため、雪が良いのとモーグルが出来るのがいい。一本目はコース取りを間違えた、全くメインのコースを行ってしまいあまり面白くなかった。2本目はなるべくリフト近くのバンプ斜面を攻めると、これは面白かった。

2日目でかなり疲れが足に来ている。昨日の雨で下のほうのゲレンデはアイシーになっておりコンデションは良くない。佐野さんに勧められ最後は私としては初めて、雪が在るのにゴンドラに乗って麓に下りたのであった。

麓に下りるとニックから佐野さんにメッセージが入っていた。ニックは2年前に来た時に私も会っているが、子供の頃を日本で過ごし、今はバンクーバーの船会社に勤める日本人とスゥエーデン人のハーフで、いまガールフレンドとこちらに向かっているという。シャトルでロッジにもどり、車でビールを買い足しに行く。昨日の残りのすき焼きと、その他で夕食の用意ができたころ、2人が到着する。ガールフレンドはジャクリーンと言い、大柄な美人である。ジャクリーンは、驚いたことに大学で日本語をとったそうで日常会話程度の日本語が話せる。ニックはお母さんが日本人であるから、時たま2人があえて日本語で話している姿は微笑ましい。

その日は私たちのロッジに泊まって翌日 4人でウィスラーを滑るつもりである。ジャクリーンはよく気の利く女性で誰かの飲み物がなくなるとすぐ立って入れてくれる、お皿が空くとすぐ片付けてくれる。ニックが日本人の亭主(あ、私のことではありません)のようにまったく動かないお坊ちゃんなので、お似合いのカップルに見える。夜ジャックリーンのところに危篤だったお祖母さんがなくなったと知らせが届く。しばらく落ち込んでいた彼女に皆が慰めの言葉をかけるが、「大丈夫、明日スキーをして帰る」という。

 

3日目は、朝から晴天である。リックたちより一足先に佐野さんと山に上がる。2本ほど滑ったところでニックたちが合流する。中級のスキーヤーだという2人であるが、結構滑れるようである。ヘリ・スキーのクルーによればスキーレベルを自己申告させるとアメリカ人は過大申告、日本人は過少申告するそうで、いかにも謙遜は美徳の日本人と売り込みがすべてのアメリカ人を表していて面白い話である。よって「同じレベルの人間を集めたつもりでも蓋を開けてみるとバラバラのレベルとなり、うまい人が下手な人を待つこととなるから絶対上のレベルが良いですよ」ということだそうである。結構何処でも付いてこれそうな2人に私がコース選びをしながら滑る。晴天でやはり雪質は上のほうが良い。‘裏側のサンボウルという斜面に行くと広い斜面で少し新雪が残っていて気持ちのいいコースである。途中で持参のビールで乾杯。

夕方、私の作ったカレーを食べて6時ごろ2人はバンクーバーに帰っていった。

ゴンドラ降り口から山頂付近を   ニックとジャクリーン          斜面で乾杯

 

4日目、ブラッコムのリフト乗り場に車をとめて、今までと違うところから山にはいる。一緒に乗った地元のスキーヤーによると、彼らの間では混雑したスキー場よりスノーモービルで2人一組になって山に入るのが流行りだという。1時間くらいでヘリ・スキーと同じ場所にいけて交代で滑るという、ヘリ・スキーは一日$800くらいかかるが、なるほど地元のスキーヤーにはそういう楽しみ方があったのか。朝一番にロックンロールというちょっとはずれにあるコースを滑ってみる。長いコースであるが、朝のうちで雪面ががりがりしている。混んでいないので雪質が良い時にまた滑ってみたいコースである。上のほうが雪がいいので、再び、2日目に滑ったブラッコム氷河に行ってみる。

 

佐野さんが案内板の前で日本人らしい男の人と話している。行ってみるとブラッコム氷河について佐野さんが聞かれているようである。一人らしいので、こんなときのスキーヤーの挨拶として「宜しかったら一本、ご一緒に滑りませんか?」と誘ってみると、「お願いします」とのこと。一人でここまで来るくらいだから下手な人はいないであろうが、姿格好で大体スキーの腕前が分かるので一緒にブラッコム氷河の長いコースを下りることにする。氷河の下り口まで登りながら聞けば日本から一人で来ているという。ウィスラーに5日いて、この後レーク・ルイーズで4日、バンフで4日ほど滑って日本に帰るという。滑りながら何度か立ち止まり、自己紹介をする。山ではゴーグルやサングラス、帽子で年齢が分からないことが多いが松下さんという神戸からのこの方は我々より年配とは思ったが、なんと今65歳、丸紅をリタイヤされた、我々の関係業界の人であるが、「繊維関係をやっていたので、ほとんど後進国にいましたので、アメリカは初めてです」とのこと。綺麗な滑りをするので、「何処でスキーを習われましたか?」と聞くと、20代でスキー連盟に入って講習を受け指導員の資格をお持ちだという。一人でこられたのは同年輩の方でまだスキーを続けている人は少なく、元気な若い人は仕事が忙しくて半月もスキーに付き合ってくれる人がいなかったからだとおっしゃる。今は質素にユース・ホステルに泊まり、自炊をしながらバスでのスキー場通いだという。65歳とは思えないスキーで、ばりばり現役の指導員でおられる。その体力の秘訣を聞けば、スキーにかける情熱であろうが、60代になってフルマラソンをするために一ヶ月に120キロ走っていたという。感服の至りである。

ロックンロール              ブラッコン氷河の案内板          鉄人松下さん

 

我々は今日がカナダ最後のスキー日なので、11時半からのブラッコンの無料ガイド・ツアーに参加するつもりでいた。松下さんをお誘いし、一緒に参加することになり、コーヒーを飲んでから集合場所へ行く。去年、ウイスラー・サイドでこのツアーに参加して良い思い出になったので今回はブラッコンの上級者クラスのツアーに参加したかったのである。すでに50人ほどの参加者がおり、我々の入ったのは最後の総勢15人のグループであった。グループの引率者はヘンドリックさんといい、出発前に全員で記念写真をとる、。ここのスキー場のガイドのレベルはかなり高いが、今回のヘンドリックさんも上手いスキーをする。佐野さんが聞いたところでは、リタイヤした、歯科医だという。引率しながら、時々集合して辺りの案内をしてくれる。今日はいつも頻繁に来ている彼でも珍しいほどの快晴だという、そう言われてみれば周りの山々がすべてクリアーに見えているが、いつも快晴のマンモスで晴天慣れしている私にはここではかなり珍しいことだといわれてもあまりピンとこないのである。何本か滑り、リフトを乗りかえながら、また3回目のブラコム氷河に来てしまった。でも、この斜面は気持ちが良い。ヘンドリックさんが斜面上の次の集合場所を示し、そこに向けて全員が滑り出す。遥か下方の2人の人影が次の集合場所である。私が先頭を行く、気が付けば先ほどの2人はすでに移動してしまっている。動くものを目標にするあたりがヘンドリックさん流のジョークか?よって私が立ち止まったとこるが全員の集合場所となった。そんなことを繰り返すうち佐野さんが「熱くなったのでリュックに入れて」と帽子とゴーグルを私に渡し背中を指差す。「佐野さん、冗談でしょう、リュックないよ」彼が背負っているはずのリュックがない。どうやら先ほど集合の前にコーヒーを飲んだロッジに忘れてきた様である。何か大切な物は入っていなかったかという私の問いに、私がつくった2人分のランチのおにぎりとビールくらいなものだという。それは私にとりかなり大切な物であるが、集合場所と解散場所は同じ場所と思われるので、そのままツアーを続けることにする。1時間半前に出発した場所に戻ると、ヒューレド・パッカーがスポンサーで出発の時に撮った写真を無料でくれた。しかも、ガイドへのチップも一切必要ないという。佐野さんはすぐにロッジのレストランにリュックのチェックに行く。松下さんとロッジに入ると、佐野さんがオーケーのサインを出している。リュックがあったようだ。食堂の人がロスト・アンド・ファウンドに届けてくれていて、佐野さんだ聞いた人がたまたまその発見者で、彼が今採りに行ってくれているという。なかなかここの従業員は親切でいい。

ガイドのヘンドリックさんとツアーメンバー                   ペンデルトン

 

返ってきたビールで乾杯して昼ごはんを食べる。松下さんの体力を絶賛すると、彼のいる宿にはもっとすごい人がいて、81歳でオーストラリアからウィスラーに一人で10日間のスキーに来ている人がいるという。上には上がいると驚くほかない話である。午後から少し滑って我々は少し早めに切り上がることにして、ソーラ・コースターというリフトの下を滑る。最後のモーグル斜面を鉄人松下さんが一気に下りていく、私は途中で一休みが必要であった。こういう大先輩にお会いすると改めて元気を頂き、まだまだ頑張らなければと思う。勇気と希望をいただけたことを感謝し、「おかげさんで、楽しかったです」という言葉をいただき、我々は麓へと下りる。4日間のスキー三昧も終わりの時が来た。

 

まだ3時少し前であるが、我々はそのまま予定通り車で30分ほど先に行ったペンデルトンという山に囲まれた村に観光に行く。何もない 寂びれた小さな街であった。一軒だけバーがある。中に入ってみると薄暗い店内で数人の地元の人が飲んでいる。佐野さんがおばさんのバーテェンダーに「マティーニが出来るか」と聞いたら「マティーニなんて何年も造っていないわ、造り方を教えて」などといわれた。こんな会話が好きな佐野さんがカウンターに行って教えている。ほとんど観光客も来ないところであろう。スキー場と違い我々のようにスキーウエアで闊歩している人は他にいない。一杯飲んでお店を出るとき気が付けば周りの客が私たちに手を振ってくれている。

ウィスラー最後の夜である、ビッレッジにお土産を買いに行く。まずはバッファロービルに寄って一杯飲んでから買い物をしてビッレジで最高級のレストランというARAXIというレストランに行く。ここにはオイスター・バーがあるのを知っていた。カナダにきたら生牡蛎である。正面のオイスター・バーにすわると、韓国系のジェフというシェフが気持ちの良いサーブをしてくれる。やはりここはストレッチナヤ(ロシアのウオッカ)のストレート・マティーニである。生牡蠣にたっぷりとレモンをしぼってホース・ラディッシュとカクテル・ソースかポン酢で食べる。冷たい牡蠣が口の中で踊る。

 

気持ちよく酔いホテルに帰る。昨日の残りのカレーとラーメンを食べると、冷蔵庫は綺麗に空いた。明日の朝は早いので荷物の整理をする。予報では明日から雪、天候が荒れ出すという。朝6時前には出発の予定だが何時から雪になるかで場合によってはもっと早く出なければならないかもしれない。

 

翌朝、天候が気になるので3時ごろには起きて時たま外を見てみるが、降ってはいない。雪でなければ2時間で空港までいける。5時に起きてコーヒーをいれ、佐野さんを起こす。予定通り5時45分ごろ車で表に出るとなんと雪が降っている。ここではレンタカーもノーマル・タイヤでチェーンも積んでいない。まだ回りは暗い、降ってくる雪がヘッドライトに照らされる。時間外なので指示された途中のオフィスでチェック・アウトして先を急ぐ。道路には2−3センチほどの雪が積もっている。暗い雪の中を走るのはいやだが湿った雪だし除雪車が通り砂をまいてくれている。これから山ではなく空港に向かうので、明るくなる頃には雨に変わると思われる。予想通り、スカニッシュのあたりから雨になってきた。バンクーバーの街中に入ると通勤ラッシュであった。

 

今回5泊6日の旅ともなるといろんな事があってテーマがしぼれず、私としては珍しくエッセイを書き始めてもタイトルが決まらなかった。そんな中で一貫して背景に流れていたのは友人、知人、出会った人と「一緒に楽しく滑りませんか?Shall we スキー?」という概念であったと気づいたときこのタイトルが決まった。リフト乗り場で出会い、リフトの終点で別れるリフト上の一期一会の人たち。ニューヨーカーのスキーヤーが別れ際に言った“Have a great life ! 「良い人生を!」いい言葉である。I will you too ! 

どんな逆境にあっても人生を楽しむ余裕が持てたらと思う。でもスポーツで言えば余裕は苦労して初めて身に付く物だから人生でもその辺が難しいところである。

 

“Have a great life ! “