雪の解けるが如く           2012年5月3日   小堺 高志

雪に恵まれなかった今季のマンモスは今のところ5月の終わりまでのオープンを目指しているそうだが、どのくらい雪が残るか気温しだいである。

4月最後の週末にマンモスに向かう。
今回、佐野さんは来週日本から友達の八嶋さんが来るのでもろもろの用意とかで欠席。
斎藤さんのところに原ちゃんと夕方6時に集合。夏前に日本に永住帰国する斎藤さんとは雪次第はこれが最後のマンモス行きになるかもしれない。

先月から3週間入院していた父は2週間点滴だけで過ごし、93歳の年齢としては奇跡的に自分で食べられるようになって、今月半ばに退院して家に帰った。一時はすぐに帰国する覚悟をしていたので、当面その心配事もなくなり、シーズン終わりのスキーを存分に楽しんで来ようと思う。

いつもと違う集合場所の斎藤さんの家に向かう。私としては佐野さんのところへいくのと時間的には同じくらい。斎藤さんは自分の家を売りに出す前に自分でリモデルしている。トイレ、お風呂、台所と内装を終え、今は外壁のペイントやら、コンクリートミキサーまで買っての外回りをほぼ終えていた。天は二物を与えずというが、(あ、深い意味はありませんが)、玄人並の完璧な仕事、本当にこういう才能には感心する。

だいぶ日が長くなった。7時40分ごろランカスターでタイ料理店にはいって夕食。
ここで斉藤さんに運転を変わってもらう。インデペンデントからビショップまでの街々のホテル、モーテルが満室である。原ちゃんが、そう言えば明日はフィッシングのオープニングデーと思い出す。周辺の河、湖は明日の朝の夜明けとともに釣りが解禁となる。かっては我々もオープニングデーの早朝に燃えた事があったような気がする。


斉藤さん宅と、モハベの夕暮れ

遅い時間なのに街なかを明日の釣りに備えて動きまわる人たちが居る。Tシャツと半ズボン、外は暖かい。釣り人にはいいだろうがスキーヤーにはシーズンを短くする気温である。ビショップのマーケットでワイン・ビールを買い、マンモスに着いたのは午後1時まえであった。

それから2時半まで飲んで、翌朝6時半起床。
小春日和のいい天気であるが、我々はもちろん寝不足である。
先週で歩いて行けるキャニオンロッジは閉まっているので、車で移動しなければならない。8時45分ごろスタンピーの駐車場へ着くと思った以上にゲレンデには雪が残りカバーされている。

スタンピーを滑りだすと、朝はまだ硬くセメントのような雪面である。腰痛の原ちゃんは一本滑ってもう休憩でビール一本。リュックにビールを背負って滑っているから、早く軽くしたいのは分かる。このペースだと何本ビールを飲むつもりだろう。


シャモニーを出発、   ゲレンデの雪と原ちゃん    やる気満々の  斉藤さん

それでも、段々と下の方から柔らかく滑り易くなってくる。斎藤さんとリフトの上で話していたら隣の男がどこの言葉だと話しかけてくる。日本だというと、ヨーロッパに長く住んでいたという男は熱く話し始めた。日本はいったことがないが、いろんな国を訪れたという男の話は、要はいかに世界は狭く、人間同士が仲良くして行かなければならないかということであるが、リフトを降りても話している。なかなか別れるタイミングをくれない。
世界の人々は向い合って話せば大概がいい人達である。しかし、宗教、政治、人種が絡んだ時に、反発しあうことがある。
斎藤さんが、「ともかく日本は地震、津波ととてもエキサイティングな国だから何時か訪れてくれ」と、まとめてくれて、やっと解放された。


斉藤さんを追っかける。写真を取ってくれる人がいないので、自分撮りが多い。

マッコイにて原ちゃんに一枚撮ってもらう。  マッコイのバーは朝から大繁盛。

先日なくした帽子の代わり、スキー靴下などを見るが、いずれもサイズがもうなかったり、気に入らない。しょうがなく、スキーのワックス、リップステッキなど使える小物を買う。残金はマッコイステーションでので昼食となる。

午後、雪が柔らかくなったのでウエストボールのモーグル斜面がどんな具合かいってみる。今回私はモーグルに使っているスキーを持ってきていない。例年であればこの時期にはかなりモーグルも滑りこんでいる時期であるが、今年は殆どモーグル、コブは滑っていない。運動不足で滑りこんでいないうえ、だいたいが滑る前から筋肉痛で太ももが痛い。斎藤さんが先に行くがあえなく転倒、立ち上がってまた転倒、私も身体が出来ていないので、あまり身が入らない。少し滑ってコースアウト、結局ほとんど戦わずして不戦敗の二人でした。


ウエストボールのコブはエグいえぐれがある。ほとんど戦わずに敗戦。

フェースリフトに乗ってると、下から「さいとーさーん」、の呼ぶ声が、竹内さん夫婦がきていた。遠くから良く分かりましたね、顔でなく体型でしょうかね、と斎藤さんに言ったら怒られた。竹内夫妻と一緒に滑る。ふたりとも上手いスキーヤーである。

2時半に終了。久しぶりに原ちゃんとも何本か滑れ、楽しいスキーであった。
帰り道、道路の側溝を雪解け水が勢い良く流れている。もうスキーシーズンも終わりなのだと実感する。
コンドに戻って、しばしのうたた寝。
斎藤さんは昨夜、私より1時間は余計に寝ているが、やっぱりうたた寝している。
1時間ほど休み、簡単に食事の準備を進めてから、ジャグジーにいく。

気持ちいい春の気配に包まれ、ビールとワインを飲みながら、ジャグジーの中で久しぶりに若者のように日本を憂い、世界を話し、人生を語る。
斎藤さんは我々の世代ではなかなかの常識を持った知識人であり、共感するところが多い。

どうしてアメリカ市民権を持つ斎藤さんをアメリカ大統領にという話が出ないのであろうか? それはないか? いや、あったな、「よっ!、大統領!」と、ははは。
出来れば今シーズン中、もう一度斎藤さんとマンモスで滑りたいが今後の雪解けしだいである。そして何時か新潟のスキー場でまた一緒に滑りたいと思う。


ジャグジー、最初は4人ほどいた若者はあがり、我々の貸切に。   今夜の夕食です。

今日の夕飯のメインは豚肉の梅肉炒めである。
木曜から豚肉のステーキ肉を梅肉、味噌、生姜、にんにく、蜂蜜、玉ねぎの薄切りに浸けておいた。肉だけを取り出し、片栗粉を付けて焦げ目が着くまで炒める。そこに浸けておいた汁を加えて全体に火が通ったら出来上がり。梅肉の甘酸っぱさが決め手で豚肉の旨みを引き出す。
そして、豚汁と、出来あいのお惣菜各種である。
充分と思っていたワインが4本、昨夜からで全部空いてしまった。

朝、6時半起床。
今日も晴天なり。
今日も駐車場のいい場所に車を停めることが出来た。そして、原ちゃんが手袋を忘れたと言う。用意していたリュックを丸々忘れて来たそうだ。リュックの中にはもちろん原ちゃんのエネルギー源であるビールも入っていた。「原ちゃんが、ビールを忘れた」とは我々の間では大ニュースである。手袋はこの気温でなくてもいいが、ビール無しで原ちゃんが何処まで我慢出来るか。

9時前から滑り始める。昨日より早く雪がソフトになり、滑り易い。
斎藤さんと23番リフトで山頂に上がり、コーニースを滑る。急斜面ながら珍しくここはエッジが効きいた。「なかなか良かったですね」「じゃあ、もう一本」また山頂に戻る。


シャモニーから見た早朝の風景、朝、滑り降りて来る人はほとどが上級者や、レーサーだった。

後はスタンピーの斜面を滑り続ける。
今日はレースのクリニックをしているそうで滑り降りてくるスキーヤーは上手いスキーヤーが多い。

竹内さん夫妻と合流して何本か滑って、一緒にまたコーニースに戻る。続けてまた1本。急斜面ながらショートターンが出来る。


山頂へいく23番リフト、 山頂からレーク・クローリーを望む、コーニースの滑り出し


竹内さん夫妻、

実際はかなり急斜面。

午後11時半に駐車場で原ちゃんと落ち合って終了。春スキーとしては気持よく滑れた2日間であった。

コンドに戻った原ちゃん、まずはビールを開ける。斎藤さんが運転してくれるというので私も一本。

夏にシャモニーのコンドのクロセット等を一部改装するそうで、荷物整理のため、いくつか佐野さんに持って帰るようにと言われている物がある。
スキー、釣具、ゴムボート、ジャケット、アイスチェスト。前の車だったら入らなかったが今の車は余裕で全部積める。
その間に残り物で斎藤さんが昼食のふわふわ卵をのせたチャーハンを作ってくれた。

帰り道、新緑が眩しい、快晴の春の空気の中を南へと走る。



帰りにダウンタウンのリトル東京に夕食に寄りウエラコートでラーメンを食べた。
ウエラコートの駐車場へ降りるエレベーターのあたり。まさにこの場所は1975年、私が初めてアメリカに来た春、4ヶ月ほどこの場所にあった松島ホテルに泊り、毎晩、桑原さん、貞やん、高浦さん、金やん達と楽しく笑い合っていた場所である。

その後バブル期に日本資本が入りその一帯は再開発されてニューオータニホテルとウエラコートのモールが出来、しばらくは観光客で賑わった時があった。今は日系資本の多くが引き上げ日本人観光客も減り、中国人が多く行き交っている。この場所にそんな時代があった事を知る人はほとんどいない。
(夏の風、 http://www.skizanmai.com/natsunokaze.htm )

今季は、菊池さんが帰国し、斎藤さんも日本に帰っていく。楽しかった時間も雪解け水のようにいろんな思い出とともに流れていく。なんか寂しい気持ちであるが、今年も時は流れ、まもなく春は去り、夏がくる。