マオ・誰も知らなかった毛沢東

 

皆さんは歴史上もっとも残酷で多くの人を苦しめ、殺した人は誰だと思いますか?ヒトラー、スターリン、暴君ネオ、金日成、金正日、ボル・ボト、これらの人は、これから話す一人の人物と比べたら可愛いものでしょう。北朝鮮もやっていることはこの人の小さなコピーにすぎません。

その桁違いの人物とは毛沢東です。誰もが知っている名前ですが、その実態を知る人はもう僅かしか残っていません。今日の共産党の基礎をつくった毛の歴史はそのまま中国共産党の汚点となるため、共産党支配の中国ではこの話題に触れることはタブーです。共産党の宣伝のうまさと、思想教育により、毛沢東の神話が作られ、作り話のイメージが一人歩きして、いまだに毛の本当の姿が語られる事はありません。

 

間接的な死者を数えると毛沢東により殺されたその数は7000万人という天文学的人数になります。桁を間違えているのではありません。人類史上類をみない桁外れの人間を苦しめ死に追いやった毛沢東とは本当はどんな人物だったのかが今回読んだ厚い2冊からなる「マオ・誰も知らなかった毛沢東」に書いてありました。これは私の正義感から皆さんにも知ってもらいたいと思ったのです。以下のあら筋と感想をぜひ読んでみて下さい。

 

この本は今はアメリカに住む、中国人、ユン チアン(大ヒットした文化革命期の自分の母のことを書いたワイルドスワンの筆者)が10余年と470人に及ぶ当時の関係者へのインタビユー、資料に基づいて書かれ2005年に出版されたこの本の内容は全て歴史的事実です。インタビューを受けた者の中には100人におよぶ当時毛沢東のすぐそばにいた同僚、家族、政権上部層の人も含まれています。

まずは長いあら筋になりますが是非お読みください。

 

中国共産党を作り上げた中心人物の一人でその後絶対的権力を持つことになる毛沢東の神話は開放のための戦いの旅『長征』から始まる。長征中に国民党との最大の激烈な戦闘が行われたと言うルーチイン橋の神話は毛沢東の作り話で、毛沢東が自分で大きく歪曲してアメリカ人エドガー スノーに語った話をスノーに本にさせ、それがいつの間にか共産党の公式神話になってしまったものである。驚いたことに共産党設立の出発点とされるここでの戦闘は一切行われた記録はない。そこにその時、国民党の兵士がいた記録も交信記録もないのである。そこにいた部隊は共産党の部隊が着く前に撤退されていたと記録が残っている。このスノーというジャーナリストは毛沢東がみつけ中国共産党の血塗られた過去を消し、イメージ回復と神話を作り出すのに大いに貢献した人物で、その後毛沢東の言いなりに「中国の赤い星」「毛沢東自伝」「毛沢東印象記」という3冊の本を書き、英訳、中国語で出版され、共産党と毛沢東の評価を高めた人である。多くの人がこの作り話にだまされその後、若者があこがれて入党する礎を作り上げた。

 

だいたい激戦と言われるのに国民党にも共産党側にも一人の死者も、負傷者も報告されていない。橋の麓に住んでいた老婆も対岸に向けて撃たれた数発の銃声しか聞いていないと証言している。にもかかわらず毛沢東は宣伝映画までつくって自分の英雄的行為として事実にしてしまったのである。

 

長征で多くの兵士が死んだのは装備もなく無意味に毛沢東に休みなく8ヶ月にわたり2000キロも行軍させられ病気、寒さで亡くなった人が半分以上いたからである。その無意味な行軍は軍事的意味をもつ行軍ではなく毛沢東の個人的な権力を奪取するための一環であったのである。

こうして長征は8万の兵士を1万に減らしたが毛沢東は担架に乗っていたし、休息も栄養も十分に取っていた上級幹部は一人も死ななかった。この遠征で毛

沢東の支配下における階級制と特権の冷酷さを示す統計がある。遠征終了時、紅軍は幹部の方が兵士より多くなっていたのである。さらにその兵士たちの食べ物は略奪によるもので、貧農民はそのために餓死した人が大勢いいるのである。

 

意外な事に毛沢東は抗日には何の関心ももっていなかった、関心があったのは自分の権力制覇だけであり、抗日というスローガンをかかげたのは自分の思い通りに軍を動かすための口実であり実際に部隊は日本軍に接近すらしなかった。毛沢東の抗日どうこうという英雄的な話は後で作られた話である。抗日運動に熱心だったのはいつか日本がソ連へ侵略してくると恐れたスターリンであり、国民党の蒋介石であった。囚人に中国軍の服を着せ、射殺して、翌日、日本軍が中国人に対する攻撃を始めたと虚偽の記者会見をして、反日感情を高めることもあった。

毛沢東にとり抗日戦争は「日本が手を貸して国民党、蒋介石を滅ぼすチャンスだった。実際、日本軍閥に感謝したいくらいです」と戦後本心と思える言葉を後に述べている。

 

毛沢東は権力を手にするために初期には大量のアヘンを扱い財をつくり、多くの罪のない人を殺し、恐怖政治を敷いた。それも普通の殺し方でなく残虐な方法で苦しめて殺し、それを公開し人々の恐怖心をあおり抵抗勢力を抑え込んだ。何万人という反乱軍がおぞましい120種類の方法があったという拷問で処刑された。

そんな毛沢東を初期から支えたのがモスクワのスターリンである。毛沢東はスターリンから金銭と武器の支援をずっと受けていた。毛沢東はその支援と後ろ盾が欲しくて、基本的にはモスクワからの指示に逆らう事はなかった。毛沢東に劣らず残忍なスターリンは中国を支配するにあたり、毛のような人間を必要としていたのである。

 

1941年、国民党の優位に立った共産党はその宣伝力で、嘘の作り話を歴史的事実とし、その共産党にあこがれてその頃の本拠地延安の毛沢東のもとに若者が集まって来た。しかし新しく参加した若者の大多数はすぐに失望した。最大の原因は彼らが理想として描いていた平等が全く存在せず、不平等と特権だらけの組織であったからである。等級の異なる3つの食堂、配給、衣類、医療、教育、全てが等級によって差がつけられていた。

次に毛がしたことはその不満を持つ者、同調する者をあらぬ疑いをかけて拷問し恐怖心でおさえつけ、脱走者は容赦なく処刑することであった。それでも脱走者は後をたたず、お互いを監視、密告する恐怖政治の礎を作くっていくことになる。

そのころ中国で勝利をおさめていた国民党もまたインフレ、食糧危機、役人の汚職、浪費、蒋介石一族の不正行為等で人民の指示を急速に失っていく。

 

対する毛の最大の武器は冷酷非情さであった。長春を兵糧攻めにした際、罪のない人民を容赦なく孤立させ、最後の食料であった木の葉が散った7ヵ月後には50万の人口が17万になっていた。この型の兵糧攻めはかなりの都市で行われたが関係者には硬く口止めの命令が出されていた。この長春の一都市だけでも南京大虐殺の死者をもっとも多めに推定された死者数よりさらに多い。

共産党の支配圏においては兵一人に対して2人の民衆が軍の勢力拡のために徴収された。平津戦役ではその数は700万人、さらに全ての世帯では決められた量の食糧を供出させられた。燃料、資材にするため、家を解体させられ住む処を失った者も多かった。

支配を徹底させるため少し裕福と言う理由だけで共産党支配下の各地で身の毛もよだつ虐待が行われた。姓が「牛」だったある老人は鼻に針金を通され息子が牛を引くように引いて村中を引き回す事を強制された。煮いたぎった油を頭から注がれ殺された人、手足をつかんで引き裂かれた乳飲み子。毛沢東により人口の“大きな部分”が皆殺しにされたと記録された都市はいくつもある。1948年だけで100万人ちかい人が殺され、1600万人が虐待を受けた。誰もが恐怖に震え上がった。恐怖で支配した共産党により、1949年ついに国民党の支配は終止符が打たれ蒋介石は台湾へ逃亡した。

1950年からの一年間全国規模の反革命鎮圧運動が行われ約300万人が命を落とした。それから27年にわたる毛の支配下において刑務や労役で死んだ人の数は2700万人に達すると思われる。毛沢東により命を落とした人はその上に天文学的人数の餓死者が加わる。

中国の支配者となった毛はメディア、宗教に対する抑圧政策をとり、さらに住人から搾取し、国家資産になった財産は実質的に毛の個人資産であった。誰も毛の許可なく使えないし、毛は自分のためにはその使い切れない財産をいくらでも使った。それはすべて人民の犠牲によるものであった。人民には節約、節制性欲を強要し自分は快楽を追求した。服装に無頓着であったが、他には考えられる贅沢の限りをつくした。

 

朝鮮戦争において開戦時、中国は45万という人民兵を朝鮮半島に送っているが、その兵力のほとんどは元の国民党軍の兵力を動員した。いわば粛清である。敵の弾丸を一発使わせるために一兵を前進させた。作戦も何もなく前へ前へと押しやる人海戦術であった。氷点下30度で露営を余儀なくされ、大多数の兵隊は外套も厚手の靴もなく、中には裸足の者もいた。毛にはそんな事はどうでもいいことであった。兵隊が死んだら次の兵士を送れば良い。そのため戦死者の多くが毛の作戦による無駄死であった。中国は北朝鮮に少なくとも累計で300万の兵士を送り、40万ちかい犠牲者をだしたと発言している。これは中国兵士だけの中国の非公式犠牲者数である。ソ連の公式文章では中国人死者数を100万人としている。休戦後2万の捕虜の元国民党軍の兵士たちはほとんど共産国中国への帰国を望んでいなかった。3分の2は台湾へ渡り、本土へ戻った3分の1は投降者として毛沢東政権が終わるまで迫害を受けた。毛はまた朝鮮民族の捕虜を休戦時に手放さないよう金日成に指示し、6万人の捕虜を辺鄙なところに収容し南に帰す事はなかった。生存者がいるとすればこういった場所にいまだに収容されていると思われる。

 

毛にとり大切なのは朝鮮戦争により、より多くの援助をスターリンから引き出し、ソ連指導の軍事工場を中国に建設し、軍事面でアジアの覇者になることであった。北朝鮮の金日成は中国とも接点があったがそのころソ連との関係が強く、中国共産党がソ連から引き継いだ共産党組織の配下の地域的には日本、フィリピン、マレー半島、ビルマ、チベット、などが含まれ。ベトナムのホー チミン、カンボジアのボル ボトなどが中国から援助、訓練を受けている。

 

1953年、スターリンが心臓発作で死去すると、ソ連に代って世界の共産圏のリーダーとして、しいては地球を支配しなければならないと大気炎を吐いている。毛の軍事大国への野望はとどまる事がなかった。ソ連から軍事工場設備を買いうけ、その支払いはほとんどが農産物輸出による収入であったが、中国に食糧以外に売るものはなく、その取立てのため中国の農民は世界でもっとも貧しく飢えていた。その農民の食糧は都会部の配給よりすくなかった。のみならず毛沢東は共産圏の長男として中国より裕福なヨーロッパの共産主義諸国にも気前よく食糧を贈与、寄贈した。農民は兵役以外で生まれた土地から移動する事を禁止され何代も奴隷のように一生を縛り付けられて働くしかなかった。

 

毛沢東は農民の苦しみは見ていながらなんの手も打とうとしなかった。「農民は年間食糧110キロで生きられる」と毛は言い放っている。110キロと言うのは政府が決めた、生きていくのに最小限必要とされた量の半分である。農民は5割が食糧不足で春には木の葉、野草をたべるしかなく。1955年の一年で農村部の自殺者は25万近くにのぼった計算になる。毛沢東に陳情する勇気ある人もいたが、毛は1万もの陳情したシンパに対し「マルクス主義者として不十分、たっぷりと痛めつけてやれ」と指示をだしている。さらに農業を集団化して抜け道をふさぎ、いよいよ農民は働く時間もコントロールされた自由のない国家の奴隷として働くことになった。

 

1957年、毛沢東は共産党に対する批判を歓迎すると発表した。しかしこれは知識人をまとめて迫害する罠であった。10万人が批判され、1万人が逮捕され、1000人が処刑された。右派として僻地で重労働に送られ朝4時に起きて夜7時か8時まで一日15,16時間休憩なしで働かされた。北大荒に送られた人の多くは戻らなかった。これで表立って毛を批判する知識人は中国にいなくなった。

 

その頃、地質調査もなく灌漑事業に手弁当で17万の人が借り出されダムが各地に作られた。その後粗末なダムが嵐で崩壊し推定24万人がなくなる人類史上最悪のダム崩壊災害は毛沢東の愚挙のおかげであった。

この大躍進といわれる工場プロジェクトで1639件が着工されそのうちまがりなりにも粗末な製品が作れるようになった工場は28件だけだった。残りは完成前に資材の不足等で中断された浪費であった。犠牲になったのはまたも民衆である。中国の5年計画、10年計画と言うのは統計的に裏づけされた計画ではなく、毛沢東の希望する数字を5あるいは10で割って年間の目標にしたものにすぎない。それが達成できないときには当然担当者が罰せられた。

 

同じ頃起きた大飢饉もまた毛の気まぐれでおきた人災であるが、1960年だけで2200万人、4年間で3800万人が餓死あるいは過労死した。毛はすべてこれらの人を計算ずくで死に追いやったのである。毛沢東は「死は結構なことだ、人が死ななければ人があふれてしまう。世界革命のためなら3億人の中国人を犠牲にする用意がある。3分の1が残ればいい」といっている。そして世界革命をすすめるため、食糧を中国より裕福な国々へ援助し続けたのである。

 

前代未曾有の餓死者がでている時でも、毛は自分のために毎食70品目も調理させ、余った物は捨てさせた。残った料理を持ち帰って自分の贅沢が外部に漏れるのを防ぐためである。毛が唯一興味がなかったのがファッションであるが、毛はあえて継ぎはぎのある衣類を好んだ、それにより世間が「毛主席は自ら贅沢をしないで我々と同じ生活をしている」と思わせるためである。実はその素材は最高のものであり、継ぎはぎをつけるため北京の最高の仕立て屋の元に衣類が送られ、時にはそのために特別の飛行機が用意されたと知る民衆はいない。

世に出た毛の事を良く書かれた出版物はすべて宣伝のために作られた偽りの内容である。

 

中国、唯一の輸出品である農産物を外国への無償援助と輸出に使い続け、その影で多くの国民が餓死した。個人崇拝を推し進め、恐怖政治を推し進め、もはや毛に意見を出来るものはいなかった。8000もの歴史的建造物が取り壊された一方、何十軒という自分用の別荘を各地に作らせ、そこで働く選ばれた女性たちは「選妃」とよばれ、毎晩一人あるいは複数で毛のべットに呼ばれる女性たちであった。

 

人民が100万単位で餓死している時も外国への情報の管理と宣伝は徹底していた。毛は平気で「中国には飢饉はありません」と中国を訪れた世界の要人に真っ赤な嘘をつき、世界にそれを信用させていた。国内で前代未曾有の餓死者が出ているのに毛は対外援助額を拡大、大盤振る舞いして、自己宣伝の後押しをした。

 

毛はいよいよ党内の大粛清にとりかかる。段階を踏んで進める事にしてまずは文化に手をつけたため、これを文化大革命となづけた。

芸術、教育、伝統、などをことごとく破壊し、全国で校長、教師、裕福階級出身の学生が粛清、自己批判、拷問死させられた。毛はそれの暴力を明確に指示し、そのプロセスに便宜をはかり、紅衛兵たちの移動、食事、宿泊を無料とし残虐行為を奨励、若者たちの行動を絶対鎮圧しないよう命令している。やがて毛沢東語録をかざしながらその標的は、文化の担い手や、文化財そのものの破壊へと向っていく。

さらに対象は職場の上司、党の幹部と広がる。それに対して誰も異を唱える事は出来なかった。毛沢東に批判的であった者は拷問で殺され、その残虐行為の一部始終はカメラマンにより記録され、毛沢東に届けられた。何百万と言う人が強制労働収容所に送られた、それはまさに毛沢東による恐怖政治であった。

一連の大粛清により、10年間で300万人が殺された。当局はもっとも残酷に人を殺害する方法を人民に教える講習会を開き、生きたまま切り取られ、釘を打ちこまれ、その場で料理して食べる人肉宴席と呼ばれる行為が毛沢東の言葉によって、正当化され平然と行われた。

 

毛に反対を唱えるものはいなくなり、党内粛清の対象は長年の側近、といえども全てが毛の攻撃対象になり、地位を追われ、自己批判させられ強制収容させられた。一貫して毛に忠実でナンバー2の地位を保ち続けた周恩来といえども、自己批判をさせられ、晩年は膀胱癌にかかり、早期に発見されていたにもかかわらず、毛は手術を受ける事を許さなかった。毛は周恩来が自分より長生きして、自分の人生の最後をコントロールされたくなかったのである。それが原因で周恩来は1976年1月、毛沢東より8ヶ月早くなくなる。

 

しかし、側近をすべて粛清してしまった毛は後を引き継ぐ人材をなくし、林彪を死に追いやり、序列の低かったトウ小平を抜擢し後えい者に指名したが、結局大量の元高級官僚を復職させないと軍も政府も動かなくなり、文化大革命以来強制収容されていた政治犯を大量に釈放する事となる。だんだん体力の落ちるなかで、文化大革命否定の流れは止めようがなく、4番目の妻、江青ら4人組をつかって自分の権力をたもとうとしたが、最後は江青も自分の死後、守りきれず見殺しにすることになる。毛沢東は自分の4人の妻にも、実の子供達にも冷たかった。1976年9月9日、毛沢東は82歳でなくなったが、死の寸前まで意識はしっかりとしており、最後まで自分の権力の心配をして、指示を出していたという。そこには国を思う気持ちも家族を思う気持ちもなく、権力を執って27年間、すべての人間を信じることなく疑いとうし、多くの人の人生を狂わせた人生の終焉であった。

 

皆さんも毛沢東を知れば知るほど歴史上これほどの暴君がいたであろうかと思うであろう。自分の自己満足だけのために、多くの人間の命を奪った。しかし、現中国を統率する共産党はその後継政権として毛沢東神話の不朽化を目指している。こうして、毛沢東の実態、共産党の汚点は中国では隠蔽され、未だに公やけな非難はされていないのである。

 

毛沢東支配の中国では民衆は限られた情報しかあたえられず。唯一の息抜きとして与えられた発表の場、壁新聞はその狭い場所に限られた情報であり、発表者はいずれ粛清されている。やがて反抗心もなくし、あきらめ、従うだけの民衆をつくりだした。

 

チベットはダライ・ラマが支配する完全に独立した仏教王国であった。チベットの融合は毛沢東の指示による明らかな軍事侵略であり強引に中国の領土としたものである。モンゴルも一歩間違えれば毛が侵略し中国領になっていたが、ソ連の存在が毛の野望をくじいたにすぎない。今の中国もやっている事は毛沢東の時代と大きくは違わない後継政権である。東シナ海ガス油田問題にしても、既成事実をつくり、いつの間に領海のはっきりしない部分を自分のものにしようと言う魂胆である。

 

中国のメディアの報道は100%政府のコントロール下に置かれており、そこには常に政府の意図がはいっていると思うのが当然である。自国民への情報をコントロールして、住民の批判を国内に向けさせないため長年日本など他国を非難の対象とする教育をしてきている。南京大虐殺も日本のいう犠牲者数と中国の言う犠牲者数は10倍の開きがある。この頃の中国の実情を知れば、その頃そういう事実を正確に記録する術が中国にあったとはおもえない。記念館にも関係ない写真、資料を南京大虐殺のものとして展示されているものが多々あるという。南京大虐殺も、ナチスドイツのユダヤ人虐殺も、毛沢東がやった事と比べれば遥かにスケールが小さいのである。

 

この毛沢東がいまだに批判されていないのは、事実を知る人が少なくなり、政府が隠しているからである。もし毛沢東の実態が公けになったら現共産党の根本的体質に係わる事であるが、いつか批判、非難され、民衆の前にさらけ出される日が来る事を願いたい。

 

世界で一番大勢の人間を苦しめ死に至らしめた男、毛沢東。大きく人類の汚点として記録されるべき人物が人民のために立ち上がり共産党をつくり支配者階級から労働者を解放した人として記録されているのは中国の恥であり、強いては人類の恥である。毛沢東は自分のためにしか動いた事のない、残忍で戦争好きな男でしかない。今回中国以外でこの本が出版されたのは将来の毛沢東、共産党批判への第一歩となる大切な意味がある。一人でも多くの人に読んで貰いたい本である。