KGBの女              小堺高志  file#00-4-

3週間スキー場とご無沙汰であった。その間マンモスでも積雪なし。ロスの周辺からはランカスターのカリフォルニアポピーやバルボア パークの桜の開花状況とかが聞かれ、何処も彼処もすっかり春の気配である。午後7時半ごろ佐野さんとロレインをピックアップしてマンモスに向かう。ロレインは独身の時住んでいたサンタモニカの近所の住人で、今まで我々と3度ほど一緒にスキーに行っている。人柄も体形も丸い、人の良い婦人である。彼女は50年ほど前、13歳でタイタニックならぬクイーンメリー号で両親とアメリカに移民して来たイギリス人で、子育てもとうに終わり、一人で自由に暮らしている。今でも気候さえ良かったらイギリスに戻りたいという。最初曇っていた空もやがて星空となる。FM局からタイミング良く「哀愁のヨーロッパ」が流れている。

我々とスキーにいった顔ぶれのなかで婦人が一緒だったのはロレインだけではない。異色は先シーズン3度ほどスキーに連れてったロシア人の親子、ミロとその息子マイケルであろうか。ミロは我々の友達がやっている寿司屋の常連客の一人で佐野さんが拾ってきたスキーヤーである。息子のマイケルは8歳、ミロは若い頃はさぞかし美人であったろうと思わせる30代後半のバツイチ婦人である。話してもなかなかの才女で、たとえばアメリカ人には特定の分野で深い知識を持つ人はたまにいるが一般教養としての地理、科学とかの知識は日本人の方が一般的に遥かに高い。しかしミロは科学とかの造詣も深くアメリカ人とは明らかに違う種類の教養の持ち主と感じさせられる。モスクワ大学をでて、アメリカに来てコンピューター関係の仕事で首都ワシントンなどで働いていたという。ロシア、モスクワ、アメリカ、ワシントン、コンピューター、そう、賢明なる人はこの語句の配列になにか感じるものがあろう。彼女がアメリカに来たのはソビエト連邦崩壊の前である。そのころソ連からアメリカに来られるのは相当なコネクションがなければ無理であったと思われる。するどい我々もやはり考えました。「共産国では才能のある人間はほぼ間違いなく、その国家に召抱えられる、もしや彼女は ……。」。ある時彼女が佐野さんと私をスキーのお礼にと自宅に招き、ロシア料理ボルシチをご馳走してくれた。酔っ払った我々は彼女に聞いた「ミロあなたは本当は格闘技とか、射撃とか得意なんじゃない?」「え?」といぶかるミロ、「我々は、本当はあなたはソビエト政府からアメリカに送られたKGBではないかと思っているのだけれど?」笑って否定するミロ、しかし我々はその美しい瞳が一瞬光るのを見逃さなかった。我々は今でもミロ=KGB説は可能性大と思っており、今はやりの言葉で言えばこれは我々の間では“定説”となっている。

ともあれ、春スキーである。翌日早起きをした我々は8時半にはスキー場にいた。リフトの係員はそこまでやるか?というアロハシャツに半ズボン姿である。ロレインは我々とはかなりスキーのレベルが違うので、基本的には勝手に一人で滑ってもらう、そして彼女も自分のペースで滑る方がいいという。佐野さんとリフトに乗るがどうも佐野さんの様子が 先ほどから変である。朦朧としたような動作で普段不眠症を訴える佐野さんがリフトに乗ると眠ってしまった。すぐに起きた佐野さんいわく、「小堺氏、どうも薬を間違えて飲んでしまったみたいだよ」「えっ!」と私。つまり、佐野さんは去年、膝を壊してから、医者に処方された鎮痛剤を非常の場合に備えスキーに来る時は持ち歩いている。それともう1つ、筋肉緩和剤を用心のためスキーの前に飲んでいる。筋肉緩和剤を飲むつもりが、非常薬である強力な痛み止めを飲んでしまい、睡眠効果がでてしまったらしい。こうして午前中はリフトに乗ると、うとうとし始めるので私としては彼が落ちない様に気が気ではない。

暖かい気温であるが、まだゲレンデには3−4メートルの雪が残っている。朝のうちカリフォルニアのスキーヤーが「シエラネバダ山脈のコンクリート」と呼ぶ堅く凍みたゲレンデの雪が段々と柔らかくなり、滑りやすくなり、やがて柔らか過ぎて重い雪質になる。その境目の一番滑り易い雪を求めて段々と標高の高いゲレンデへと移動していく。佐野さんの具合も良くなり、マンモスの一番南に位置する9番リフトを滑る、マンモスで一番長い森林コースである。時間帯による雪質を読み違えると、長いコースを悪戦苦闘して降りなければならない事になるが、幸い読みはピッタリであった。

3時半にあがり、キャニオンロッジでロレインと待ち合わせ。ぽかぽかの日差しの中、生バンドの演奏を聞きながらコロナビールで喉を喜ばせる。

翌日、日曜日はかなり強い風が吹いている。春スキーの醍醐味、モーグルを中心に滑る。日中雪が柔らかいので滑りこまれた急斜面は自然にでこぼこが出来、モーグルのバンプとなるが、今日のバンプはかなり深くなっている。そんな所で上手い奴に出会うと「俺もお金をかけているが、奴もそうとうかけているな」と思う。スキーが上手くなる要素は色々あろうが、一番の要素はスキーをした時間、何時間をスキーに費やしたかであり、つまり世俗的な単位でいえば幾らスキーにお金を使ったかである。その意味でまだまだお金はかかりそうである。しかし今回マンモスで5月1日から今シーズンの終わりまでと、来シーズン一杯使えるシーズンパスが$375で売り出されると言う嬉しいニュースを聞いた。なにしろ普通のシーズンパスは 1シーズンで千何百ドルする。26日間くらい通わないと元が取れない計算で、いわば損するか得するかという、1冬かけたギャンブルである。どこのスキー場もそのような料金の中、この値段のシーズンパスは良心的過ぎて申し訳ないくらいで、こんな勝てるギャンブルならいけいけである。

モーグルは疲れるが柔らかい春のざらめ雪の状態がまたスピードコントロールし易く面白いのである。あまりこれにはまってしまうと年配者は腰痛、膝痛,筋肉痛と3痛そろってしまう。なにしろ階段を 3段跳びで降りて行くくらいの下からの突き上げを下半身で受けながら滑るのだから、とりわけ我々のような使い古した身体のパーツを騙し騙し使っているような者には後でじわりと効くいてくる。無理は禁物であると分かってはいるが、その満足感もたまらないのである。

佐野さんと私は“君が行くから僕も行く”という、中年者にとっては悪循環である。ブレーキをかける者がいない。おーい誰か止めてくれ。

KGBに止めてもらうか?