僕の旅                                     上川克己

1. さて、高校を卒業した僕は、一体自分が何をしたいのか、何をすべきなのか、まるでイメージを描けないまま、とりあえず羽田空港の地上サービススタッフとして就職上京した。そこで、9ヶ月の寮生活をするわけですが、このときは特に取り立てて書くような面白い話はない。ただここで働いている時に、アルバイトで来ていた大学生から耳寄りな話を聞き、それを契機に、色んなことが動き始めた。その話とは、当時の僕の給料は2万3千円だったが、遠洋航海の鮪船に乗り込むと、悪くても手取り100万円位になる、といった情報でした。兎に角そのときの僕の唯一の夢は海外旅行をすることだったから、これは願ってもないチャンスなわけ。それで、その説明会に情報をくれた大学生とともに12月のある日清水港まで行ったわけ。概要としては一航海が大体6ヶ月くらい、収入は水揚げ時の鮪の相場によるので、一概に約束できないが、前回の航海で新人が手にした金額は102万円、そんなことを聞かされて、もう居ても立っても居られなくなり、東京に帰り着き次第辞表を提出、1月20日の出航に間に合わせるべく引越しや(といっても大した持ち物はほとんどなかったが)なにやかやと、慌ただしく年明けを迎えたものでした。清水には1月8日に引越し、とりあえず支度金3万円を支給され、船員用のタコ部屋に寝泊りし、出航までの準備を始めた。実際の出航はエンジン関係のトラブルがあったりして2月1日に延期されたんだが、それまでの約1ヶ月はほんとーにわくわくする日々で、自分の人生の中でもかなり高揚した気分を一番長期間味わった時だと思う。

 

 

2. さて、清水でのタコ部屋生活は結構楽しいものでした。今回乗船する先輩船乗り5人、僕と同様の新米4人、最終的に10人の共同生活が結局半月以上続くことになった。当時の初任給が2万3千円と前に書いたけど、3万円をもらって、更に船中での生活用品を買うようにと2万円を渡され、合計5万円は1970年の時点では相当使いでがあったのです。5人の先輩の4人までが沖縄出身者、新米は1人が沖縄、一人長崎、一人が名古屋、2人が大阪、1人は岡山、一人焼津、一人清水、そしてもう一人がどこあろう(ノブやんト同じ)中津の人間だった。しかも歯医者の一人息子。ただ彼は出航直前にきたので、タコ部屋ではほとんど一緒にはならなかった。後々知ったことだが、この出航前の期間に皆は一航海で必要な生活物資を買って乗り込むわけだが、そのために渡されたお金なんだが、最初に一緒につるむようになった「水公」(長崎出身者)と僕はそんなことがそれ程重要とは思えず、長い航海になれば当分味わえない食べ物や、遊びに興じる毎日でした。水公は21歳、僕は19歳、他の新米は24歳以上。船の中では新米が名前で呼ばれることは先ずなく、我々10人全員にあだ名がつけられていて、水公が何故そう呼ばれるようになったのか、もうはっきりと記憶にない。彼は確か最初その容貌から「うらなり」と呼ばれていたが、いつの頃からか水公に変わっていた。これは良くあることで、因みに僕の場合、最初は羽田(なぜならそこで働いていたから)、途中からJumboと呼ばれるようになった。その年日本に初めてジャンボジェットなるものが羽田に飛来して来た年で、そんな飛行機を見たのが船の中では僕だけだったということと、全体の新米の中では僕は大柄のほうだったからです。水公と僕は年も違わず、動機も似ていたので何となく一番話しやすく、いつも二人で清水の町を徘徊していた。この時僕は初めて、当時の言葉で、「トルコ」なる場所へ連れて行かれ(Excuse me, ladies!)、船乗りの生活の入り口に立った実感を持ったものでした。しかし、前渡金としてもらっていたお金は実はもっと大事な生活必需品、下着とか石鹸とか歯磨き、歯ブラシとかその他の着替え、また漁に必要な長靴や手袋、作業着などを買っておかなければいけなかったのだが、それを知ったのはいよいよ出航というその日の数時間前、ほとんど使い切ったお金ではとてもそんな必需品は買いきれないので、仕方なくもう1万円前借し、とりあえず最小限のものを買い集めようやく出航に間に合った次第。さて21日は季節風の吹く寒い日だったが午前10時30分に時間どおり出航。まるで映画で観るようなテープを投げて互いに別れを惜しむ家族のやり取りに、僕の心もちょっとしんみり、最早引返しは出来ないんだという事実に突然初めて不安な気持ちが湧き上がってきた。

 

3. 清水港を船はいよいよ出港しました。特に清水港には知り合いのない僕は皆がテープを懐かしそうに握り合ってる光景に多少のうらやましさを感じながら、でもこれから自分の旅(そう、これは僕の気持ちの中では仕事に行くのではなく、旅立ちだったのです)へ出るという意識で少し高揚していました。そんな多少感傷的な面持ちで甲板から遠ざかる岸辺を見つめていると、横に来た機関長が突然、「おい、羽田!(僕の当時のあだ名)みどりちゃんがおまえに手を振ってるぞー、はよー振り返してやらんかー!」と僕に大声で怒鳴り始めた。みどりちゃんなんて知り合いが何でこんな清水にいなきゃーいけないんだよーと思いながら、「機関長、俺にはそんな知り合い居ないですよー?!」と言い返した途端、そのみどりちゃんが僕の視界に飛び込んできて、思わず顔を赤らめてしまった。そんな僕をニヤニヤからかい顔で見つめながら機関長は「何でわしがそんなコツを知っちょうんじゃろうか、と思うちょるんじゃろー、おのれは。いいか、よー覚えちょけよ、わしはおのれのこつは何でも見通しじゃー、ワシに嘘はつけのじゃー」といって、更にニヤニヤするのだった。そんな言葉を自分の中で咀嚼していた時、再度みどりちゃんの顔を見つめなおしてみると本当に僕に向かって手を振ってくれているのが分かったとき、突然僕はどうしようもなく心が切なくなって、なんだか説明のつかない感傷に襲われた。それは淡い恋心にも似た感傷でした。半年後に船が帰って来たときにはまた会いたいなーという思いに捉われたということは、いまにして思えば、これが営業のエッセンスなんだろうが、その時はそんな発想はまるで生まれなかったな。ところで、一体マグロ船というものはどんなものか少しその概要を説明しておきます。これから始まるドラマ(?)の舞台とも言える大事な場になるわけですから。乗った船の大きさは1800トン、と言ってもぴんとこないと思うけど、400mトラックでは直線が100mあるが、船の全長は76メートルだったから、その直線の4分の3位あったと言うことで想像してみてください。通常のマグロ船はその半分もあればいいほうなんだけど、第18盛秋丸は大型遠洋延縄漁船の最後の生き残りで、その船上に4隻のキャッチャーボートを搭載できる仕様になっていました。ただし、僕の航海ではキャッチャーボートは2隻しか積んでいませんでした。そして、この航海が実は第18盛秋丸の最後の航海になるのはもう決まっていたのでした。それまでの乱獲がたたって、もう大掛かりな規模でのマグロ漁は採算が取れない状況にその当時既になっていたのでした。乗組員は全部で丁度50人、内僕のような全くの新人甲板員が8人、板前の新米弟子が一人、そして沖縄水産高校出身の戸口もこの航海が初めてのプロとしての航海だったから、一応新米扱いと言うことで、船の社会の中での位置付け、新米かベテランかということで言えば10人が新米で40人がベテランという色分けになっていた。後々ここが重要になってきます。通常船の長は船長ですが、漁船の場合最終意思決定者は船長ではなく漁労長になる。船長は位置的には2番目。3番目は「チョッサー」(英語の"Chief Officer"がなまったもの)次に機関長、冷凍長、甲板長、と続き、いわゆる役付きが10人位。冷凍長の位置が以外と高いのは、何ヶ月もマグロを漁して回るわけだから、当然それを船倉の冷凍庫に貯めていくわけで、だからその商品の管理部長としての冷凍長の位置は結構大切なわけ。76メートルの船の半分はこの冷凍庫といっていい。中はマイナス20度に保たれます。この船倉が一杯になって初めて航海が終わるわけで、出航前に聞かされていたところでは期間は約6−8ヶ月、でも終わってみれば実際は10ヶ月もかかったのでした。ちょっと前置きが長くなりましたね。いよいよ船は右後ろに白い富士山を眺めながら遠州灘を西南西に向けて航海を始めました。

 

 

 

4. さて、先にも書いたように、この出航は21日(ところで僕の記憶力は自慢ではないけど物凄く悪い。そんな僕がこのときのことをここまで鮮明に覚えているのは、この時の体験がそれだけ自分にとってそれまで、またそれからの後の人生にとっても「Big Event」だったわけです)だったわけだが、正に大寒を過ぎた時期で、シベリア寒気団から噴出される季節風が日本列島を北西から南東に吹き抜け、当然南西に向かう船はこの風の方向とは直角、つまり真横から受けることになる。船が横から風を受けるとどうなるか、所謂ローリングがおきる。進行方向に向かって右、左、角度にすると30度の横揺れを感じ始めたのは出航して15分後、出航時の感傷なんかもうすっ飛んでしまい、頭がぐるぐると回り始め、ものの30分と立たないうちに吐き気を催し、げろげろが始まった。幸か不幸か、出航の日は特に仕事はなく、自由時間だったので、日本列島を見納めといった感傷は何処へやら、早々に船室に引きこもり横になってうなり始めた。船酔いの苦しさを知っている人は分かると思うけど、経験のない人には先ずあの全てが厭世的な気分になる感覚と、逃がれようのない頭痛は想像できないだろう。船室にいると余計気分が悪くなるような気がして、甲板にでると、少しは気持ちがいいんだけど、荒れ狂う海を見ながら海面に向かってげろげろやってると、今の船酔いを感じ続けるなら、いっそ飛び込んで海に浮かんでたほうが楽なんじゃないかといった思いに囚われ始め、それを実現してしまいたくなってしまう。まだまだ死ぬのは早いと、這って船室に帰った。我々の与えられていたスペースは幅60cm長さ1m80cmのホンとに一人がすっぽり入ったら余裕がないくらい。それが2段ベッドになっていて、10人の新米が同じ部屋で共同生活をする。一応カーテンでプライバシーを確保するようになっているけど、プライバシーなんてないも同然。そんなことを気にする余裕もないほど10人の新米のうち8人までが船酔いでゲッソリ。全く船酔いを感じない奴が二人もいたことが信じられなく、また憎たらしくも思えた。さて、夜が明けて2日目からは船上での初仕事が始まった。といっても仕事は既に出航前にやっていた漁の準備だったので、しいて難しいことはなかったけど、それを船酔いの頭でしかも15分置きにゲロゲロ戻しに行く様はとても無様なもの。先に登場した機関長曰く「今まで船に乗ってきて船酔いで死んだ人間は一人もおらん。二日もすれば絶対慣れるもんじゃ」と言った言葉に安心もし、兎に角後一日位頑張れば何とかなると自分に言い聞かせながら食事もせずに、夜の眠りにつくのだった。そして、2日目、3日目となるにつれ、だんだん新米連中も回復していき始めたが、5日目になっても嘔吐を繰り返すのは僕と宮田(例の中津出身者)の二人だけ。二人とも症状が軽くなるどころか、水だけしか飲めない状態で、吐くものはも水しかなく、その水を吐き切ると胃液を搾り出すようになり、その胃液さえも出尽くすと今度は血反吐を吐き始める。この苦しさといったら形容の仕様がない。例え血反吐でも吐けば少しは楽になるので15分置きに船腹に走り、先輩の嘲笑を浴びながらゲーゲーやるわけだ。あーこの時はほんとーに苦しかったなあー。多分我々二人は船酔いの克服が一生できないタイプの体じゃないのかと話し合ったものだった。

 

5. 1週間を過ぎる頃からようやく嘔吐は収まり、粥程度なら何とか食べれるようになったが、それでも仕事になると、ちょっと水平線から目を離すと目がぐるぐる回る状態で、ひょっとして自分は船酔いを克服できない、貴重な類の体質じゃないかと思い始めた頃、船はようやく沖縄沖に達し、太平洋戦争中の海難場所として有名なバシー海峡に差し掛かって来た頃、さすがの北西の季節風も弱まり、海も穏やかな時間が多くなった。さすがに船酔いもどうやら収まってきた。日々の仕事も最初はからかわれ、バカにされながらやっていた手作業も、いつのまにか巧く出来るようになってきた、しかも新米の中では一番仕事振りが良いとおだてられ始め、一度くじけかけた気持ちも何処へやら、日々の生活がむしろ楽しいものになって来たから不思議なものだ。最初の漁場はモルジブ沖のインド洋と決まっていたが、漁場に到着するまではまだ有に2週間はあるとのことだった。その2週間の間に漁の準備を終えなければいけないのだが、具体的にどんなことをしたのか説明しておこう。先ず鮪漁だが、これは始めに言及したように延縄漁。延縄とは延々と続く主縄に適当な間隔でえさを付けた釣針をたらしていく仕掛けと言っていいだろう。主縄の長さは約100km、通常一枚の縄と表現する長さの縄にこの釣り糸が6本ぶら下がっている。その6本の釣り糸をはさむように浮球があって、主縄が海底まで沈まないように宙ぶらりんの状態を作るわけだ。浮玉の数が約150個だから150枚の縄を入れるといった表現をする。浮球にはガラス製の、通称「ビン玉」が使われる。漁の準備としてはこの釣り糸の一番先に付けられる釣針になる部分を作る。針は長さ5cmくらいのドでかいやつで、それがブランと呼ばれるワイアー製の先にペンチで巧みに巻きつけて作るわけだけど、これをきちっとやっておかないと鮪が掛かって暴れたときバレてしまう。だから新米が作ったブランは必ず先輩がチックすることになってるが、僕の作ったのは最初の数回は駄目なものもあったが、2日目からは全く問題がなく、先輩の信頼を勝取ったのは新米の中で一番だった。一番駄目だったのが水公とモヤシ(中津出身の歯医者の息子)特にモヤシは船の揺れが収まっても船酔いが克服できず、最後まで生き延びたのが不思議なくらいそのあだ名の通りだったのが、今考える何とも可笑しい。ただ逆に言えば、それ故に彼は生き延びることが出来たのだった。生存の為には強ければ良いということではないことを、後日身を持って覚えさせられた。

釣針作り以外では主縄の弱そうな個所を修理することや、ビン球を包むバスケットを編むことなんかが主な仕事だったが、どの仕事も僕は誰よりも一番正確に出来たから、船乗りは自分には向いているんじゃないかと思い始めていた。しかし船の中での一番の楽しみは食べること。兎に角毎日肉類が欠かさず出され、こんな贅沢をしていいんだろうかと、罪悪感を感じるほどだった。当時の乗船前の体重が68kgだったが多分漁が始まるまでの2週間に5kgは太ったと思う。朝食は7時から、昼食が11:30、夕食が5:00で、夜食が10時と、一日4食を全て丼飯で2杯づつ食べてたわけだから、太らないわけがないね。仕事は8時から3時まで。4時から風呂に入り、5時の食事が住むと後は自由時間、と言っても特にする事もなく、麻雀や将棋に興じる程度。ラジオやテレビはないので、みんな結構カセットテープを持ってきていて、演歌なんかを聞いているわけ。ところでお風呂や洗濯は全て海水、また米や野菜をを洗ったりするのも海水で、真水は飲み水のみ。ところで海水で風呂に入るときに一番困ることは何だと思いますか。風呂上りはタオルでふき取れば結構すっきりします。一番困ったのは石鹸です。これは普通の石鹸では泡が立たない。それで船乗りは皆乗船前に自分用の「海水石鹸」をしこたま買い込んで来るわけだが、そんな事を知らなかった僕と水公は航海中多分一番垢黒い顔をしてたことだろう。残念なことに当時の写真はただの一枚も残っていない。

 

6.              さて、(何だかいつも「さて、」で始まるようで申し訳ない。)ここらで登場人物を整理して置きます。乗員は全部で50人丁度、僕が深く関わったのはその中のせいぜい10人くらいだと思う。自分に一番近かった8人をとりあえず順に説明しておきます。

1.「水公」 最初はその元気のない容貌から「うらなり」と呼ばれていたが、無類の西瓜好きということが分かってからはそう呼ばれるようになった。長崎県出身、バーテンをやっていたらしいが、高校中退らしかった。親に勘当されていたようで、人生に投げやりな感じがあった。年齢的に一番近かったし、出航前から寮で一緒に生活してたこともあって、一番身近に話をする間柄だった。彼はある意味でぼくと対極にあった。仕事上ではライバルであり、朋輩であり、時に憎み合い、時に庇いあい、中傷し合い、喧嘩もし怒鳴りもし、慰めあった。陸(オカ)で出会ったとして、決して友情関係に至ることはありえない奴であることは間違いないが、船の生活の中の記憶から一生消えてなくならない人間だ。10数年前まだ僕がロスアンゼルスにすんでいた頃、ある朝の車通勤の途中朝日が強烈に車に差し込んできたとき、物凄く突然彼のイメージが目の前に浮かび上がり、涙が止め処なく流れ始めたことがあった。今でもその瞬間の自分をはっきり思い浮かべることができる。

2.「島やん」 広島県は枝島出身。当時24歳、枝島という地名に記憶はありませんか?そうです、あの数学教師茂呂先生が常に自慢していた、当時の海軍兵学校があったところです。この航海の中で兎に角一番心を割って話せた人間。今でも一番会いたい男。風貌は額がやや広く、奥目で面長な男前といっていいだろう。貧しい家の生まれらしいが生い立ちはほとんど語ってくれなかった。中学を卒業して大阪の建設関係の仕事に従事、所謂「日雇い」で体つきは華奢に見えたが、底力はあった。日記を丹念につけていたので、是非一度探し出してそれを読ませてもらいたいものだ。根性が座っていて、泣き言を絶対に言わないタイプ。夢は自分の土木会社を興すことだった。そしてその資金にするために乗り込んできていた。理由はそれだけではなさそうだった。彼の朋輩(ホウバイと読み、船乗りは皆友達をそんな風に呼び合った)で布袋腹をした、通称「ホテイ」曰く、「島やんは実はワイの為に一緒にやくざから逃げてくれたんや。」と言っていた言葉が何やら意味深。

3.「機関長」 実際は本船の機関長ではなく、キャッチャーの艇機長というのが正式肩書きだったけど、その存在感から「本船の機関長」以上に機関長然としていた。ぼくのことを好いてくれて本当に可愛がってもらった。といっても殴られたりけられたししたことは何度もあったが、僕が生き延びられたのは彼のお陰だと言っていいだろう。当時の年齢36歳、自分の36歳を振り返って見たとき、当時の彼の(中国語で表現すれば)「大人」ぶりには今更ながら感歎させられる。いつも晒しの腹巻をしていて、やくざの喧嘩はいつでも買って出るタイプに一見見えたが、実はかなり繊細な人で、船の中でのイザコザや不和を事前に察知し、問題が大きくならないように、互いの機先を制していたようだ。確かに全員が一目置いていた。

4.「もやし」 中津の歯科医の駄目息子。親は大学へ行かせてと考えていたようだが、学力的に全くその手の素養がなかったし、本人も勉強は大嫌いだったようだ。彼も親からの勘当組、10人の新米の中で一番肉体的に頼りなかった。この航海を生き延びたのが不思議なくらい存在感が希薄だった。一度僕がインドへ旅立つ前に訪れたことがあるが、そのときも実家にいて、これといった人生の目的を持てずにブラブラしてるようだった。

5.「平頭」 ヒラガシラと読みます。名前の由来はサメの種類にヒラガシラと言うのがいて、彼の目や頭の形がそのサメを連想させるほど良く似ていた。このサメは獰猛で針に掛かった鮪を食いちぎり、時には自分がその針に掛かって暴れまくり主縄をグチャグチャにすることがあって、漁師の嫌われ者だった。同様の大きさののサメで青田鮫と言うのが居たが、こちらは至っておとなしく、かまぼこの材料になることから珍重されたのに比べると、このヒラガシラは皆の嫌われ者、そして、この人物も同様だった。自分の人生の中で本当に殺してやりたいと思ったのは、後にも先にも彼しかいない。もうすぐ登場しますのでお楽しみに。

6.「セカンド」 文字通りSecond Officerつまり2等航海士の通称で、途中のマヘ島から急遽乗り込んできた補充要因。理由は出航時のセカンドが病気になってしまい、彼だけは飛行機でインド洋のこの島まで飛んで来たのだった。航海の後半ではほとんど彼の部屋に入り浸っていたが、その理由は彼が船の中で一番インテリだったから。船が補給に寄る度に現地での交渉事は彼が通訳として活躍した。日常的に英語の小説を読み、ビートルズを聴いていた。大江健三郎や吉本隆明の話が心置きなく出来たことは当時の僕にとっては本当に心のオアシスだった。

7.「ボースン」 英語の甲板長の意。我々新米甲板員の直接の上司とも言うべき人。仕事に厳しく、他の時間は好々爺(といってもまだ40代だったけど)然とした、とても人間味のある人だった。

8.「垢シャツ」 赤シャツならぬ垢というところがみそ、いつも赤い垢汚れたシャツを着ていたが、役柄は若頭といったところで、我々新米を取りまとめるような役割で、恒常的にいじめられたが、酒を飲まない限り人間的にはやさしい人だった。

 

7.              船が台湾を過ぎたあたりから海の色が微妙に変わり始めた。所謂黒潮のやや濃い目の青、群青色というのかな、だったのがだんだん明るい色に変わってきた。まるで白い絵の具をだんだんより多く溶かし込んでいったように明るい水色に変化していく様は朝起きてみるたびに新鮮だった。ところで僕は今も昔も朝は日の出とともに目覚めるタイプ。船の中では夜番(night watcherといって、必ず寝ないで船の航行を見張る役割が航海士以外にもう一人いた)以外で早朝に起きているのは僕だけだった。僕の目覚めは大体5時半、皆は7時半位だったから、2時間近く一人の時間を楽しんでいたことになる。そんなときは大体30分位は船の舳先に立って船の進行方向を飽きもせずに眺めていたもんだ。たしか10日目くらいだったと思うけど、ある朝起きてみると海の色が突然大幅に変化していた。まるで牛乳を流し込んだように、やや薄い水色になっていたのだ。黎明の水平線を見ると遠くに低い山陰と高いビルらしきシルエットが浮かび上がっていたが、海図を毎日見ていた僕にはそこがシンガポールであることがすぐに分かった。船はマラッカ海峡に差し掛かったのだった。残念ながらこの航海では寄港の予定はなかったので、単に通り過ぎるだけだったが、それでも初めて目の当たりにする異国の地は感動だった。日本海と太平洋に囲まれた日本から、本当の世界地図の世界に入ってきたんだという実感。なんかとても嬉しかったのを今でもはっきり覚えて居る。

マラッカ海峡はほんの2日くらいで過ぎ、途中ペナン島を通り過ぎるときに先輩達がいうに、多分インド洋での漁の間に一度はこの島に補給に立ち寄るだろう、またその港町の美しさと食べ物の、特に果物のおいしさは比べようもないといったことまた、エキゾチックな女性のことなんかを聞かされ、胸がときめいたもんだった。

マラッカ海峡を抜けきったあたりから、少し船内が騒がしくなってきた。いよいよあと、2,3日で本当の漁が始まる予定だった。朝突然若頭の垢シャツが新米8人に召集をかけ(10人の新米のうち、一人は賄、もう一人は機関士見習だった)今から教えることが有るから艫(船の最後尾)に集まるように言われ、集まると、太さ1cm、長さ30mくらいの縄を渡され、それを海中に投げ込み、巻き上げる所作を教え始めた。最初は何でそんなつまんないことをやらされるのか分からなかったが、彼が竹刀を持って我々の後ろに立ち、へらへら笑いながらやっていた水公を思いっきりブッタたいたあたりから、急に皆真剣になってきた。どうやらこの縄を早く手繰り寄せることはかなり大事そうなことが飲み込めてきた。曰く「いいか、お前ら、いい加減にやっちょると、おのれの命を持っていかれてしまうんぞー!」これはどういうことかというと、先にも説明した延縄ではブランと呼ばれる支縄の先に5cmほどの釣針があって、それに餌をつけ延々と沈めていく。当然引き上げるわけだが、その方法は主縄を機会で巻き上げ、ブランが上がって来るとすかさずそのスナップをはずし、主縄に巻きつかないように素早く手繰り寄せなければいけないわけだ。勿論適当に手繰り寄せれば言い訳ではなく、後処理し易いように、直径30cm位の綺麗なループにするのが結構難しく、これをある程度の正確さで素早く作る練習を何度も何度もOKが出るまで繰り返しやらされた。

 

8. なんとこの絵を描くのに3時間も掛かってしまった。

さて、図で分かるように船は主縄を海に投げ込んでいく。一番端は電波を発するブイになっていて、もし主縄が切れてしまっても、見つけることが出来るようになってるわけだ。一定の間隔で浮き玉をつけて、主縄が延々と沈んでいかないようにしている。その主なわに針のついたブランがぶら下がっている。漁の始まりはこの主縄、浮きだま、餌付きブランを投げ入れることで始まり、入れ終わったら巻き取って行く。入れるのが約4時間、巻き取るのが約10時間。レイオーバー(入れ終わりから巻き取りまでの時間)が約4時間、毎日この繰り返しになる。つまり、一日の仕事時間は18時間、時には20時間を越えることもある。当然睡眠時間の平均は4時間。ただし、レイオーバーの4時間の間に通常は2,3時間の昼寝をする。そうしないと絶対に持たない。ということは一旦漁が始まると、仕事以外の時間は飯を食う、排泄する、ふろに入る、そして寝るだけ。ゆっくり本を読むとか、手紙を書くとか、いわゆる寛ぎの時間というものは全くない。(Absolutely None!)

で、それを何日くらい続けるかというと、航海中の平均の水適する(休みの日をそう呼んだ)日は確か11日目毎、だったような気がする。長いときで21日連荘で操業したこともあった。

先ず仕事始めにやることは艫へ全ての縄を集め投げ入れる準備をする。一旦入れ始めたら休みは全くない。約4時間、働きどおしになる。餌をつけ、ブランを投げ入れるのはベテラン漁師の役割。我々新米の持ち場は冷凍餌を冷凍室から運んできて、餌を付けやすいようにばらすことと、浮きだまを投げ入れること。浮きだまは釣針6本に付き1個だから、それほどあせらなくていいが、ちゃんと数えておかないと物凄い怒声が飛ぶ。また、餌付け人の後ろに回ったりすると同じく怒鳴られる。過去にその針に引っかかり、海に引きずり込まれ溺れ死んだ新米漁師が居たらしい。兎に角船は約時速15キロくらいだが、一旦落ちると、特に針に引っかかったりして落ちると、命は先ずないと思わなければいけない。しかし、延縄は巻き上げる時のほうが危険度ははるかに高いらしい。先ず主縄にはこの針が物凄いスピードで巻き上がってくるわけだから、一旦体の一部が引っかかると空中にほうりまわされ、船体のどこかに絡みつき、たたきつけられる。過去にそれで怪我をした漁師は枚挙にいとまがないらしい。死んだ人間は10年に一人くらいらしいが、、、最悪なのが手の甲に突き刺さると抜くのが大変。なんだかそんな話を聞いてると、元寇のときに蒙古軍が捕虜とした日本兵を彼らの船の船腹に生きながら釘差にして見せしめにした話を思い出し、ぞっとしたものだった。釣針だけが危険なのではない。針に掛かってくる全ての魚が危険を孕んでいるといって良い。勿論一番危険が少ないのは鮪だが、針に引っかかって来る魚で一番多いのは、実はサメだ。既に言及した、ヒラガシラ、マイラ、シュモクといった種類の鮫に足を噛み千切られた話は、これまた枚挙にいとまがないらしい。その他危険なものとしてはカジキ、特にメカジキ。カジキの類はその鼻の角で腹を突き破られ文字通り悶死した漁師もいたとのこと。一旦怪我をすると、近くの病院まで、どんなにフルスピードで走っても10日くらいはかかる大洋のど真ん中で漁をしてるわけだから、先ず命が助からない。

 

10. 漁の初日が何日だったのか最早正確には覚えていない。逆算すると多分215日くらいだったのだろう。一応新米10人は前日の夜、持ち場を言い渡され、簡単なブリーフィングがあった、前述のような危険があることを言い渡され、これからは日々が命がけだと思えと激が飛ばされた。そしてその日は早く寝るように言われ、皆10時には眠りについた。起床予定時間は午前4時だった。床についたぼくが当時の日課になっていた日記を書き始めてみたが、興奮していたせいか、集中できない、また眠気もこないでいると、上に寝ていた島やんが「ジャンボ、まだ起きとんのか?なんやー、わしも寝れんなー、どや、デッキで1杯やるかー」「ん、いいよ、」二人はデッキに出て夜風に当たりながら残り少なくなった持込の酒を交わし始めた。2週間前清水の港を出港したときはゲロゲロしながら凍える思いをしたデッキで、今は短パン一丁の半裸状態でも少し汗ばむくらいの気温があった。海は滑らかで、季節風で吹き荒れた時にあった10mくらいの波がもう想像すらできない。月は第九夜だったので、もう少しで西の水平線に沈み込もうとしていた。船が水面を切る音は心地よく、まるでなにか薬物で陶酔させられるような効果があった。明日からいよいよ始まるんだといった心の高揚とは裏腹に、まるで現実感のない時間が流れていた。見上げる星空に、その時初めて僕は南十字星を見た。「島やん、あれは多分南十字星だよ。」「随分明るいなー、まさかあんなものを自分が見れるとはなー、よーく見ると綺麗に十字なっちょるわけじゃないんやなー、、、なージャンボ、これからいよいよ始まるなー、わしゃーこの稼ぎに人生賭けちょんよー。大阪ではろくなこつなくてなー、石丸と一緒に逃げてきたようなもんや、100万円手に入りゃーなんとか自分で商売はじめらっるぜよー、その為ニャ−どんな苦労でんわしゃーするぞー」そういって彼は少しづつ身の上話をし始めた、曰く、家は貧しく、中卒で集団就職し、土建会社で働いてきたこと、来月妹が結婚するのに兄貴として何もしてやれないことへの悔恨、同棲している彼女に100万稼いで来た暁には結婚する約束をしてきたこと、、、、彼は24歳、僕と4歳しか変わらないのに、随分と大人に思えた。そこへ水公がのこのことタバコを加えながらやって来た。「なんやー興奮して眠れへんなー」彼も一緒に語らい始めた。彼のトラウマは父親らしかった。父親の鼻をあかすためにも今回は大金を持って帰るんだと意気込んでいた。彼にも妹がいて、その結婚資金として少し回してあげたいともいっていた。僕は末っ子で、しかも5人の姉に囲まれて育ち、姉妹とは生存競争のライバルと言った意識しかなかった、だから二人の妹への思いの共通性が少し不思議だった。

11. 午前3時55分、予期していた船内の起床ベルが一斉に鳴り始めた。結局1時ごろに眠りについたが4時前には目が覚め起床ベルを聞くことになった。それはガンガン、リンリン、ジージーといった人間にとって不快に感じる全ての音を合せたようなすさまじい音に聞こえた。今でもそのときの感触が脳裏に残っている。そしてこの音を200回以上これから聞くわけだが、最初の音の瞬間は昨日のことのように思い浮かべることが出来る。

僕の持ち場は本船だった。新米の内3人づつが2隻のキャッチャーに配属された本船の受け持ちは僕を含め4人。先ず2隻の魚艇を送り出すことから仕事が始まる。魚艇は既に前夜に曳航されていて、本船から乗員とその日の食料、それに餌(冷凍秋刀魚と鯖)を積み込んで、本船から約500Mくらい離れ縄を入れ始める。本船と2隻の魚艇は夫々の進行方向が120度になるように航路を取り、主縄を入れていくが本船は約80Km魚艇は多分60km、時間にすると本船が4時間位、魚艇が5時間くらいで全ての縄入れが完了する。

いよいよ本船の縄入れが始まった。僕ら新米は仕事の具体的なブリーフィングとか予行演習が有った訳ではないので、兎に角言われるとおりのことをするしかない。僕の受け持ちはビン球を投げ入れることだった。これは6本のブラン(枝縄)と釣針が投げ込まれると、すかさずビン球(浮)を投げ入れるわけだが船は一定の速度で走っている、餌付け係りもリズムで針に餌を付けブランをどんどん海に投げ込んでいく、そのリズムに乗ってやる必要がある、また、足元をしっかり見てないと海に吸い込まれていく主縄に絡まって、自分も海に引きずり込まれていく、もたもたしてると怒声が飛んでくる。1回もう少しでビン球を投げそこなったら「バカやロー、間に合わんときはすぐ、サービス!っって怒鳴らんか!」つまり、他の人に咄嗟に手伝ってもらうときは「サービス!」と言う言葉を叫ばなければいけないと知る。その内、その他にも聞きなれない言葉が飛び交い始める。「ゴーヘイ!」、「レッコー!」、「アスターン」、「スターボー」、、、、etc.、、後年、つまり船を下りてのことだが、これらが皆英語の船乗り用語だと知ったが、この時は訳がわからず、船乗りというのは随分変わった言葉を使うものだなーと思った。なかでも「ゴーヘイ!」、「レッコー!」、「サービス!」の3つは仕事中はしょっちゅう飛び交っていた。因みに前者の2つは英語で “Go ahead!”, “Let it go!”が訛ったもの。使われた意味もほぼそのとおりです。「れっこー」は通常は手を離せ、とか任せろとかの意味で使われてたと思う。

さて、訳の分からぬ間に縄入れが終わると午後の巻取りまでに仮眠の時間が与えられる。とはいっても、新米連中は皆初日の興奮で全く眠れない。早朝の仕事の興奮を話し合ってるとボースン(甲板長)が来て「お前らー、眠れるとき寝ちょらんとこれからのながーい商売(仕事の意)、体がもたんぜよー」と警告にやって来た。では先輩船乗りは皆昼寝をしてるかというと、そうでもない。棟梁(大工関連の受け持ちだった)は一人で何やら魚を釣り始めた。「棟梁、何を釣ってんですか?」と僕が尋ねると、「みてみろ、向こうに飛び魚が跳ねちょろーが、あれじゃい、」なるほど、見ると飛び魚の群れがうねりの山から山を見事に滑空しながら数十メートル、時に100m以上も水に触れることなく飛んでいる。真に美しい。海の青さもまるでドロドロの粘着質な群青色の絵の具を溶かし込んだようで、これもまた美しい。最終的には僕らはインド洋、大西洋、太平洋と回ったわけだけど、インド洋の青さが一番濃かったような記憶がある。

1時ごろから昼食が始まる。終わるや、休む間もなく数時間前に入れた主縄を引き上げ始める。子供の頃夏になると夕方川に鰻の仕掛けをして、早朝ワクワクした気持ちで引き上げに行った時の事を思い出していた。1000本以上の釣針を入れて、一体何匹くらいの鮪が釣れるんだろう。そんな疑問をそばに居た「ドクター」にぶつけてみた。するとドクター曰く、「昔、といっても10年くらい前までは一枚の縄に1匹はかかっていたもんだが、今は4,5枚に1匹いればいい方じゃノー」とのことだった。

いよいよ縄の巻上げが始まった。主縄をモーターで巻いていくわけだが、入れるのに4時間かかれば、巻上げにはその倍はかかるということだから8時間は最低かかる。途中で縄の縺れがあったりすると10時間から12時間かかることもある。縄の縺れの原因は大きな鮫が絡んだときや、海流が渦を巻いていることで起きるらしい。この漁具は当時のコストで1000万円とかの単位でかかってるはずだから、縺れた縄を巧く解き傷つけずに回収することはとても大切だった。

船のスピードは入れたスピードの半分、つまり時速10km以下で走っていくが、巻かれる縄のスピードは物凄い。うなりを立てて巻き上げていく。針のついたブランがそのモーターに巻き込まれないように素早くスナップをはずし、そのブランを輪っかにし巻き取り、釣針が飛び跳ねないようにしっかりと固定して、丁寧に籠に溜めていく。これらの一連の作業を皆交代でやっていく。新米の持ち場は先ずビン球拾いから。これはインターバルが長いのでそれほど緊張せずにできる。魚が掛かっているとモーターの係りがハンドルを操作して巧みにスピードを調整し、掛かった魚の口が切れないようブランの張りを見る。巻き始めて15分、ついに最初の魚の気配があった。皆に緊張が走る。

 

12. 上がってきたブランはビンビンに張り切っている、垢シャツがすっ飛んで来て、丁度そのブランの係りだった水公を跳ね飛ばすようにして、もぎ取り慎重に手繰り始めた。相当に手強い相手らしく中々引き上げきれない、ようやく水面に魚影が見えた途端、やや落胆の声、「なんや、マイラや、誰か電気もってこーい!」すると冷凍員の一人が、電源コードつきの3mくらいの棒の先が銛のようなものを素早く持ち出して、船腹から身を乗り出し、今正に水面に出てきて暴れ始めた全長4mあまりの鮫の頭に突き刺した、とその瞬間鮫は全身に痙攣を起こし硬直状態になる。重さは有に200kgはあろうかという大物だからとても一人で上げられるものではない、他の一人が長い竿の先に鉤のついたもので鮫の体に思いっきり引っ掛け、ブランを持ってる垢シャツと一気に呼吸を合せて引き上げた。新米連中4人はただただその巨大さに圧倒されるばかり。腹の膨らみはまるで人間を飲み込んだほどの大きさだなー、と感心していると、垢シャツがその腹を解体し始めた。「こりゃーひょっとして、ドザエモンでもはいっとるんじゃなかんべー」、大きな腹から出てきたのは体長1m近い鮪だった。頭の部分はなく胴体をそのまま丸呑みしたようだ。釣り上がった鮫は腹部分の肉と鰭を取り、残りは全て海へ捨てる。腹肉はかまぼこになるらしい。また、鰭は例の中華スープの原材料にされるらしいが、これは漁師のアルバイト料となるらしい。

それから1時間後ようやく50kgくらいの鮪が上がってきた。まだ生きていたので、すぐにカケヤで頭を殴り内臓と鰓を取り除き、急速冷凍室へ運び込む。内蔵を取り除くやり方を教わったとき、拳大の心臓に手が触れたが、まだ生暖かく、ドクドクと脈打っていた。

その日の釣果は最終的にダルマ3匹、キハダ5匹、鮫20匹ほどと、あまりかんばしくなかった。巻き終わりは夜の9時。初日という事もあって、縄の数も少なく、先ずは小手調べ的な漁だったらしい。

本船での漁の仕事は終わったが、魚艇がまだ帰って来ていない。魚艇が本船に帰り着き、その日の漁の成果を本船に積んで、翌日の準備をしてからようやくその日の終わりとなる。

午後11時過ぎ、先ず2号艇が帰ってきた。新米で乗り込んだ南風里(ハエザトと読む)が頭に大きな包帯を巻いている。誰か大声で叫んでいる、よく聞くとどうやら「ドクター!ドクター!」と呼んでるらしい。すぐにドクターが飛んできて南風里の頭の包帯を解きほぐすと額に5cmくらいのザックリと開いた赤い傷口が見えた。物凄い出血だったらしい。すぐに医務室に連れて行かれ、局部麻酔をし6針ぬったらしい。狭い魚艇のエンジンルームで油をさしている時に金具に頭をぶつけたらしい。ところが後で知れば、どうやらイの鼻という機関員にスパナでなぐられたというのが本当のじじょうだったようだ。

その夜ようやく初日の興奮が収まって眠りについた時、ボースンがこっそりやってきて耳元でささやいた。「ジャンボ、明日から2号艇に行くんじゃ。いいな。」 「はい。」ぼくはやや力なく頷いた。1号艇から帰ってきたモヤシの疲労困憊ぶりと船酔いのぶり返しの話を聞かされていたから、ようやく本船の揺れに慣れた体なのに、今度はまた違う揺れによる船酔いとの戦い、しかも仕事は本船の数倍のきつさ。力や体力には自信があったが、あの船酔いの経験をまた一から始めるかと思うだけで、中々眠りに付けない夜になってしまった。

 

13. 順番としては僕の魚艇(キャッチャーボート)での仕事始めのことを書くべきなんだろうけど、その前に南風里のその後の事件が記憶としては強烈にのこっているのでその話をします。さて、次の日から本船詰めになった南風里だが、5針も縫い、相当の出血があったにも拘わらず、翌日からは皆と同様に仕事をさせられていたときのことだった。朝の投縄中、彼は痛みによる寝不足も手伝って、かなりフラフラの状態で、仕事をしていたらしい。新米の仕事として浮球を投げ入れる仕事をしていたとき、海へ放り投げるタイミングが悪く浮球(ガラス製)を船腹に激しくたたきつけ、割ってしまった。慌てた彼はすぐ変わりの浮球をつけようと焦ったあまり、割った浮球が主縄に絡まっているのに気がつかず、その沈み行く縄に足が絡まり、皆が気が付いた瞬間には彼の体は船の縁を乗り越えて海中に引きずり込まれたのだった。ところで前回書ききれてなかったけど、我々の仕事装束というのは、先ず靴はゴム長、その上に胴長の肩から吊り下げるゴムの寸胴のツナギを着ている。手には軍手。一端海に落ちると、船がどんなにゆっくり走っていても、惰性があるから、人が落ちた地点にバックするまでには下手をすると10分以上掛かる。船を後退させるとスクリューに巻き込む危険性があるから絶対にできない。人が見ている前で海に落ちても、助かる確立は5分5分らしい。彼の場合、新米でしかも病み上がりと言っていいほどフラフラ状態、しかも合羽長靴を瞬時に脱ぎ捨てない限り沈み行く縄に引っ張られ、1分と浮いている時間はないだろう、いいとこ30秒、そう判断したドクターは船先に置いてある銛を咄嗟に取りに行き、長い縄の一端をくくり付け、沈み行く南風里の足に向けてええい!とばかりに打ち込んだ。必死に助けを求める南風里は、自分への助けがまさか銛になって飛んでくるとは夢にも思わないから、自分はこのまま面倒くさいから、殺されるのかと感違いし、顔が青ざめ、引きつり、ギャ-という叫び声をあげて沈み行く体を思いっきり捻って、打ち込まれた銛をかわそうとする。銛はそんな南風里の長靴と合羽の合わさる部分にズバリと突き抜けた。その時彼の体は着ていた服が海水を目一杯吸っていたから、海の中に沈みこんでいる。息をつごうと必死に腕をかいているが、ゴム長ゴム合羽に入り込んだ水の重さは半端じゃない。全く身動きできない状態でしたたか水を飲んだらしい。船上ではドクターが皆に声を荒げ、今打ち込んだ銛の縄を慎重に手繰り寄せるように指示、合羽に突き刺さった銛が外れないようにゆっくりと引っ張り始めた。船の縁から海面までは波が下がると10m位下になるが、波が上がると2m位まで上がってくる。その刹那を逃さずドクターは長い竹ざおの先に鉤のついたもので、彼の上半身のずぶ濡れの服と合羽に引っ掛け、まるで鮪を船上に引き上げるように引っ張り上げた。そしてすかさず人工呼吸を始めた。南風里の顔はまるで死人のように真っ白だった。しかしどうやら一命は取り留めた模様。この顛末はそのときたまたま皆に朝食が出来た旨伝えに来ていた新米コックの大上が後で話してくれ、また南風里が話してくれた内容を総合したものだ。

さすがにその後2日間は彼は仕事を免除された。

その日初めての魚艇の仕事と新しい船酔いから文字通りヘトヘトになって帰ってきた僕は、その話を聞いてまたまた、眠れぬ夜を過ごす羽目になった。

 

14. 魚艇の仕事量は本船の倍といっていいだろう。先ず船足が本船に比べ、3−5ノット遅い(1ノットは時速1.8km)本船の入れ縄速度が10ノットとすると魚艇は8ノットくらい、入れる縄数は本船のほうが2,3割多いが、それでも本線の縄入れが4時間だったら、魚艇は5時間、上げ縄8時間だったら、魚艇は10時間はかかる、つまり、労働時間が長いから昼休み時間、1時間の昼寝ができればよいほうだ。ところが新米の魚艇での一番大きな仕事は魚艇での3食を作ることだったので、昼寝する時間はほとんどないといっていい。先ず、入れ縄中の午前6時ごろまでに朝食の準備、味噌汁とご飯と干物など、入れ縄終了後昼寝をした後上げ縄する前に昼食、メニューは鮪の刺身と決まっている。夕食はコック長に渡されたレシピ通り肉や野菜を使った料理をする。ぼくはキャンプ以外で自分で飯を作ったことがなかったから、魚艇勤務初日、機関長から「おい、ジャンボ、わりゃー、飯の炊き方くらい知っちょんじゃろうのー」と言われとき、思わずドキッとした。「早―行っち、飯たきつけて来い!」といわれたときは何をどうしたらよいのか皆目見当がつかない。とりあえず米を研ぎ始めるや否やヒラガシラから怒声が飛んできた、「ジャンボ!このバカ野郎!真水で米、研ぎやがって!、船の上は真水は最後の最後まで使わんのじゃー!」と、したたか尻を蹴り上げられた。「すいませーん!」と慌てて謝り、再度海水をくみ上げて米を研いだ。しかし今度は水加減がわらからい。確か母親が昔の釜戸で飯炊きをしているとき手を入れて、水の嵩を量っていたのを思い出し、手のひらがかくれる程度に水を張り、兎に角重油バーナーの火をつけ炊き始めた。炊き上がるまでに味噌汁を作らなければならない。これが難物。先ず魚艇はかなり小さいから揺れが半端じゃない。味噌汁用の湯を沸かそうとするが、ローリングする度にこぼれてバーナーの火をけしてしまう。野菜を放り込んだ後はこぼれないように蓋をしっかり抑えていると、体の自由が利かない狭い空間での無理な体勢とあいまって、船酔いがますますひどくなり、思わず土間に激しく嘔吐した。こんな所をヒラガシラに見つかったらまたとんでもないことになってしまうと、急いでかたずけようとした刹那、折角煮詰まった味噌汁が半分ほどが、船の揺れでこぼれてしまった。そんなこんなで予定の朝食時間を20分も過ぎてようやく準備が整い、皆にその旨伝えると、作業中の5人が交代に食べに来る。先ず最初は機関長。「どや、ジャンボ様の初めての飯の炊け具合は、、、、」と、どっかりデッキに座り、僕の盛った丼飯を口に頬張った。と次の瞬間そのどんぶりが僕の頭めがけて投げつけられた、「バカ野郎!貴様こんなしょっぱい飯が喰えっかー!、米を研ぐのは海水でも、炊く水まで海水にしろと、誰が言ったーっ!」挙句にほっぺたを思いっきり張り飛ばされた。海の男の張り飛ばしは半端じゃない。小さな魚艇の船縁からよく振り落とされなかったものだと思うほど、すっ飛ばされた。

船上での仕事は万事こんな調子で教え込まれた。つまり、いわゆるトレーニングとか予行練習とか言ったものは一切なく、全てぶっつけ本番、ちゃんとできなかったら無条件で張り飛ばされる。それが嫌なら予め仕事の手順を誰かに聞いて確認し、人がいない所でこっそり練習して、また準備して備えていなければならない。ようやくそんな船での呼吸が分かったころ、漁が始まってからの初めての適水が決定された。適水とは漁により適した(つまり魚群のいそうな)水域を求めて、漁場を移動することをいう。通常は一日だが長いときは3日くらい休みの時もある。また、台風が付近にある時などは魚群に関係なく出来るだけ進路から遠ざかるように2,3日走ったりする。いずれにしろ、これが休日になる。毎日の睡眠時間が3時間の日が続いていただけに、この適水は本当に嬉しかった。

最初は単純な適水かと思われていた今回の休み、後で分かった事実は2等機関士が思い病気に掛かり、モーリシャス島で下ろされ、日本へ帰国することになった。乗組員は予想外の寄港に皆喜んだ。通常は3ヶ月に1回寄港するところを、今回わずか10日で寄港となったわけだから。

モーリシャス島へ迂回する間、漁労長は漁場の情報を詳細に集めていたが、この時点ではインド洋は相当不漁で、むしろ大西洋の方が漁期の短縮になると判断、モーリシャスから南下しケープタウンに寄港後、大西洋の西アフリカ沖に行くことが急遽決まった。

モーリシャスでは病人を下ろすだけとなり、僕らの最初の寄港地はケープタウンに決定。そして、この港が文字通り僕にとっての初めての外国の地となったわけだ。

 

15. 船はアフリカ大陸とマダカスカルの間を抜け、ケープホーン(喜望峰)を回っていよいよケープタウンに入港した。話ではこの付近の海域は常時暴風圏と言っていいくらい荒れているらしかったが、僕らが喜望峰を回った頃はとても凪いでいて、この町のトレードマークのテーブルマウンテン(四国の屋島の感じ)がくっきりと浮かび上がり、その屏風状の山に抱かれるように、港の佇まいがあった。船が着く頃は丁度夜明けで、朝日がそそり立つ山肌を赤く照らし、その日差しが町に降り注ぎはじめる頃ようやく接岸することができた。接岸はできても上陸がすぐできるわけではない。先ず検疫官が乗り込み、多分に形式的に船内に伝染病者がいないかとかのチェックがあり、次に税関吏が不法な物(麻薬とか)の捜索を船内くまなくして回る、その後全員の船員手帳にはんこが押され、それを持ってはじめて皆上陸が出来るわけだ。いよいよ手帳を渡され、上陸を許可されたときの興奮は今でもはっきり覚えている。船員は船員手帳がパスポートとして有効なわけだ。子供の頃から本の世界でしか想像したことのなかった異国の地にとうとう足を踏み入れることができるのだ、例えそれがホンの2、3日でもここは正真正銘外国の地なのだ、という思いが僕をますます興奮させた。僕は元来何処へ行くにも一人が好きだったので、皆に先んじて上陸し、何処がどこだか全く分からなかったが、兎に角繁華街に向かって歩き始めた。すると島やんと水公が慌てて追いかけてきた。「おーい、ジャンボ、待ち−な、一緒にいこーぜよ!」それで、3人連れになり、街中へ入って行ったが兎に角一番先にしたかったことは海水用の石鹸を買うことだった。航海が始まって1ヶ月半、泡のない石鹸で体を洗っても全く垢が取れた気がせず、毎日が不快で仕方がなかった。とりあえず入ってみた雑貨屋で「SoapSoap?」と言ってみた。すると店員が「LUX」と書いた石鹸らしきものを持ってきたので、海水用かどうかを確かめるのはなんて言うのかいろいろ考えた末、「Saltwater OK?」と言ってみたが、全く通じない。次に「SeaWaterOK?」と言ってみたら、今度は通じて、今思えば多分「No Problem」と答えてくれたような気がした。ここは港町だし、多分海水石鹸だって売っているだろうと解釈し、とりあえず3個買った。船に帰って試してみればいいわけだから。このやり取りを見ていた島やんと水公は僕が英語が少し分かると勘違いしたらしく、しきりに感心し始め、いつのまにか僕もその気になって二人のガイド気分。折角きた町だから、この町のシンボル・テーブルマウンテンに登ってみようということになった。この山にはケーブルカーが頂上まで通じていて、その駅が山の中腹にあるらしく、そこまでは路線バスで行くことが何となく分かった。この当時の僕は英語に関しては高校で勉強した単語がかろうじて思い浮かぶ程度で、発音なんかまるで出鱈目、まして南アフリカの英語はアメリカ、イギリスとはかなりかけ離れたものらしかったが、兎に角身振り手振り強引に通じさせてしまった。僕はその辺は全く人怖じしない性質だったが、それを島やんと水公はすっかり勘違いし、ぼくが相当英語が出来ると更に信じ込んでしまったようだ。これが後々の僕の災禍につながるとはこの時は思い及ぶはずもなかった。

ケーブルカーの発着場の在る場所は確か「クルフネック」というような地名だった気がする。何故覚えているかというと、何度も乗り場の場所を聞いてるうちに、皆がその場所の名前を連呼したからだろう。ケーブルカーの待合所にはトイレがあったが、都合4つの入り口がある。男女の他に、WhiteOnlyColoredという区別が明確にあった。我々日本人はWhiteOnlyを使ってよいといわれていたが、(日本人は経済的なつながりから準白人というClassificationだったらしい)ぼくは矢張りColoredへ入った。日本では経験することのない差別の現場に強い興味を覚えた。

山頂からの眺望は素晴らしさの一言に尽きる。地形的にこの山の麓は霧がかかることが多いらしいが、この日は雲ひとつない快晴、遠く南に昨日回って来た喜望峰がかすんで見えた。僕は、何故かバスコ・ダ・ガマの名前を思い浮かべていた。

 

16. さて、その晩は皆でナイトクラブへでかけることになり、島やん、水公、近ちゃん、それにどういうわけか垢シャツとヒラガシラまでついてくることになった。波止場から15分も歩いたところに船員がたむろするバーが有るという情報が2等機関士の坂本さんからもたらされ、じゃー行ってみるかと言うことになった。バーの雰囲気は日本で言うディスコのそれだった。満員に近いホールの中で、各国の船員達と現地人らしい女達がそれぞれペアになって踊り狂っていた。我々が片隅に空いているテーブルに陣取るや否や、3人の女性が笑顔で近づいて来た。何か言ってるが全くわからない、どうやら日本人かどうか聞いているらしい。とりあえず酒を注文することになったが、どういうわけか、垢シャツの注文が一番先に通じた。Scotch&Waterというのを、耳から覚えた発音でそのまま言ったらしいけど、僕にはよく聞き取れなかった。しかし、酒が入り、気がほぐれてくると、話の内容にどうにかついていけるのは矢張り僕だけだった。少なくとも僕には英語の単語の知識があったから、単語の羅列で、少なくともこちらの意思は伝えることが出来た。ここはいわゆるPick up Barであることがわかり、女性としけこむのは気が合った者通し、ということらしく、何故か少し安堵した。ただ、日本人が好まれる理由は、結構小遣いをはずんだりしてくれる船員が多かったかららしい。

夜中近くになって、どうやらカップルが出来てきたのでそれぞれの家に行くことになった。ところが垢シャツとヒラガシラは酔いつぶれて、クラブの中でぶっ倒れてしまったので、我々4人は2人を残して、「しけ込み」に行った。この後の話は4人同様に笑いが止まらない経験をそれぞれがするんだが、女性読者もいるので、ここでは割愛します。

翌朝、僕は一人で女のアパートから出てきて、港のほうへ向かった。ただ、行きはタクシーだったので、歩いて港まではかなりの距離があった。途中汽車のターミナル近くで島やんにばったり出くわし、事の顛末を面白可笑しく話していると、どこかで僕を呼ぶ声「おーい、ジャンボ!、ちょっときてくれやー」、よく見ると垢シャツが警官らしき制服の人間に囲まれ困っているらしい。とりあえず行って話を聞けば、昨夜は気が付いたらクラブを追い出され、かといって船まで帰る気力もなく近くの駅のベンチで一晩を明かしたらしいのだが、その眠っているところを警官に職務質問され、今正に連行されようとしているところだった。ぼくと島やんはちゃんと船員手帳を持っていたが、彼らはなくすのを恐れ、持たずに来ていたらしく、それが原因だったよう。そこで我々が何とか警官を説得し、その場で開放してもらった。

ところで、このCapeTownで僕は生まれて初めてオレンジを食べた。その感激は数ある食べ物の味の記憶の中でも飛びぬけているが、理由はいわゆる長い船上生活でビタミンが相当不足していた所為だろう。冷凍員の佐伯さんはこのオレンジを20kgほど買っていたが、後々自分も買って置けばよかったと悔やんだもんだ。何せ1個の値段が10円くらいで、鳥目にならずにすむんだから。

CapeTownでの滞在は3日間で終わり、船は次の漁場、大西洋、西アフリカ海岸沖へと向かった。これからが本当の地獄が始まるとは、少し有頂天になっていた僕には予想すら出来なかった。

 

1. 今回は清水の盛秋丸事務所から入手した第18盛秋丸そのものの写真を添付します。舳先部分にキャッチャーボートが搭載されているのが分かりますか。元々は4隻のキャッチャーが積まれてましたが、航海では2隻のみでした。

さて、漁は大西洋の中央部、赤道直下のあたりで再開された。4時起床、4時15分縄入れ、10:30分縄入れ終了、午後1:00巻揚げ開始、11pm巻揚げ終了、本船に合流、就寝は早くて、夜中の12時、平均では12:30am、睡眠時間平均3.5時間、そんな生活が2週間ぶっ続けで続いた。体力的には疲れたが、ただ、狭い船の中で逆に時間を持て余すと碌なことにならない。50人の荒くれ男達が、この狭い船内で右往左往している図を思い描いてみてください。エネルギーのはけ口を求めて、とんでもないことになってしまう。ある晩本船に帰り着いてみると明日は適水と報じられるや、皆小躍りして喜んだ。本船での片付けが終わるや否や皆酒盛りの準備が始まった。僕は元々早寝早起きの体質だから、仕事が終わるや風呂でさっぱりし,夜中過ぎにはもうぐっすりだった。久しぶりに明日は早起きしなくて済むという思いが、いつも以上に深い眠りに引き込んでいたようだ。水公が激しく揺り起こしているのにしばらく気が付かなかったらしい。眠い目をこすりながら、「なんやー水チャン(僕は年下だったのでそう呼んでいた)、折角いい気持ちで寝てたのに、、」と不満たらたら半身を起こして文句をいうと、水公は困った顔で「ジャンボー、すまん、すまん、ほんでもよー、垢シャツがお前を連れて来いゆうて、うるさいんや、悪いけど、きてくれやー」と尻上がりな調子ですまなそうに言うのだった。水公の困った顔を見れば仕方がないか、と思い、一体何事かと食堂の方へ出て行くと、驚いたことに僕を除いた新米8人が全員(27歳の伊藤さんは新米でも何故か別格だった)一列に座り、頭(コウベ)を垂れてしょんぼりしてる、垢シャツは僕の顔を見るや、「ジャンボー、おのれはなにしちょんじゃー、こんな時間に寝くさるなんぞー、10年はえーぞー、!」とあからさまに酔った調子で怒鳴り始めた、「バカやロー、そんなとこにボケ-っとつったちょらんで、わしの前に来い!」 おずおずと彼の前に座り,皆と同じように座るや否や、頭を思いっきり殴られた。はっとしてみると、彼は手に魚を引っ掛けて運ぶ鉤棒をもっている、それでどうやら他の連中も適当に殴っていたらしい。あまりの理不尽に思わず、キッと見返すと、すかさず次のブローが飛んできた、額が切れ血が滲み始めたのがわかった。「なんじゃー、その眼つきは!きさまー、何様だと思っていやがるー!、ちょっと英語が出来ると思っち、自惚れちょんとちがうか!」 すかさず横にいたヒラガシラが、垢シャツの激昂に油を注ぐように、「ジャンボの奴は魚艇にいてもなんかえらそうにしちょるでよ、高校出てる思うて、わしらをバカにしくさっちょるでよー、」 こんな調子で始まった彼ら(垢シャツ、ヒラガシラ、猪ノ鼻)の酒盛りは、我々新米を酒の肴に、明け方4時まで続くことになった。その間仕事上の説教を大義名分に、実は自分達のフラストレーション,特にCapetownでは新米連中4人がget-laidしたのに、自分達ベテラン船乗りが何にもできないまま出航する羽目になった事実が、絶対に許せないこととなったようだ。これは後になって分かったことで、そのときは兎に角なんでこんな針の筵に座らされなければならないのか、その理不尽さに頭は怒りで一杯。しかもそんなに好きでもないウイスキーを一気飲みさせられ、疲れと相まって意識は朦朧としてくるが、うとうとし様ものならすぐ鉤棒が飛んでくる。結局全員が開放されたのは彼らが酔いつぶれ、夜も白み始めた4時過ぎのことだった。こんなことが適水の度に繰り返されるようになるとは、、、それからは10日から2週間に1日、2日ある適水休みが地獄の日々に見え、出来れば休みなく操業することを願ったものだ。だが、適水はかなり定期的にあった。

 

 

18. 水公とぼくは2号艇の新米甲板員として炊事当番を交互にやっていたが、(多分)生まれつき不器用な彼は、何をさせても寸足らずな仕事になってしまい、ヒラガシラや猪ノ鼻の虐めの格好の材料だった。ぼくはどちらかと言えば器用ではないけど,そこそこには卒なくなんでもこなせたほうだが、特に途中からは料理するのが面白くなり、最初こそ海水で米を炊いたりしたけど、1ヶ月もすると機関長から「ジャンボ、飯の炊き方が随分、うもーなったのー」と誉められるようになっていた。料理にも料理長から渡された材料に、その日外道としてかかって来たまぐろ以外の魚、例えばマンボウ(これ)はプカプカ浮いてる奴を鉤で引っ掛けて引き上げるだけ)、メカジキ、金目、時に、甲板に飛び込んでくる飛魚なんかを料理して出すように工夫をし、皆の喝采を浴びることもあった。だけどヒラガシラと猪鼻のぼくへの虐めは、水公へのそれとは別の陰湿性を極めた。兎に角、「貴様!、英語が出来るおもーち(全く出来ないのに!)、うぬぼれちょんのかー、!」とか、ちょっと疲れて欠伸をしようものなら、「ジャンボー、!タソガルっのはまだはえーぞー!」と、コンスタントにAbuseの言葉と、棍棒か縄の端かが浴びせられるのだった。ところで、「タソガル」と言う言葉は多分古語で、「誰ソ彼ル」(タソカル)から来てると思うが、船の中ではよく使われた。黄昏時(たそがれどきにはこの字を充てるが、元々は「誰ソ彼レ」時、つまり、人恋しくなる時間帯、淋しい様を表現したものと思われるが、船乗りはそんな雰囲気を他人が表すことを特に嫌っていた。

そんな中で僕と水公は二人だけの楽しみを見つけていた。それは冷凍員の池間さんに教えられた、マイラ鮫の顎骨、正に映画「Jaws」に出てくるあのどでかい頬白鮫のそのJawの骨を頭蓋から切り離し、何層にも埋まっている鋭利な歯並びが綺麗に見えるようにすじ肉や軟骨を取り除いて、置物とするそんなものを作るのが昼休みの楽しみだった。当時はあの映画はまだなかったけど、あの映画で出てきたサイズの鮫には2,3度お目にかかっていたので、映画ではそれ程驚かなかった。僕らが作っていたのはあれの3分の1くらいの大きさ。骨についている皮や軟骨、スジを綺麗に取らないと、生臭くて置物とはならない。結構神経を使う作業だったが、二人は何故かこの作業をやっているときが一番楽しかった。同様に他の器用な先輩船員は外道として上がってきたトラフグなんかでふぐ提灯を作ったりしてた。毎日虐められることばっかり考えていても気がが変になるだけだから。気が変になるといえば、、、、思い出した。

ところで、1号艇には新米として島やんと渡久地が乗り込んでいた。島やんはちょっと親分肌で、性根も座っていたが、渡久地は水産高校出身で、生真面目なタイプ。彼は我々新米の中では、既に漁の何たるかを高校時代の実習で分かっていたので、新米の中では一番仕事を卒なくこなしていたのだが、あまりにクソまじめだった為に、2号艇先輩甲板員高田の格好の虐めの対象だったらしい。(島やん曰く)どんなに仕事を(本人は)完璧にこなしたつもりでも、先ずけなされないためしはなく、だんだん暗くくらーくなっていったそうだ。そんなある日、米の研ぎ用に海水を汲もうとしていた時、思わずバケツを海上に落とし、呆然としているのを見た島やんは、咄嗟に「こんなことが高田に分かったら、またどれだけ彼がどやされるかわかったもんじゃない」と思い、迷わず海に飛び込んで取りにいったらしい。丁度その時は昼休み中で他の船員は昼寝をしてて気が付かなかったらしいが、問題は島やん。大海原には目印となるものがないから、物の相対速度は全く分からないが、風向きと潮の流れでバケツを持った島やんと船はどんどん離されて行く。慌てた渡久地は急いで艇長を起こし、魚艇という小回りのきく船だっただけに、すぐに島やんを拾うべくエンジンをかけ島やんを拾い上げたということがあった。この場では島やんが物凄くどやされ、彼も全く自分の非としたので、生真面目な渡久地は余慶に罪悪感にかられ、自分を追い込み、ついにあらぬことをつぶやき始め、突然笑い出したり、踊りだしたり、いつ海に飛び込んでもおかしくないような精神状況になってしまった。その日を境に渡久地は本船に返され、しばらく部屋に鍵をかけ閉じ込められることになった。

 

19. この頃の僕の精神状況は、渡久地のことなんか実際はどうでも良かった。これは肉体的なこととも大きく関係していたように思える。疲労とかだけではなく、体の衛生状態を保てないことがこんなにも、全てに投げやりな気分にさせられるとは、、一番の不快感は、手や足の皮膚。上げ縄が始まると、少なくとも10時間は手は水浸し、長靴の中の足もビショビショ、汗なのか、潮水なのかわからない水浸しの長靴を一日中はいている不快感は、普通の人には先ず理解できないでしょう。そんな状況にあると、皮膚の角質部分はどんどん厚くなり、一旦乾燥すると今度は手や足がつっぱるようになり、ちょっとした動作をするだけで、間接部分の皮が切れる。それを防ぐためには、暇な時間には、鮫の皮とか、小刀で、この角質部分を常に削り取る必要がある。先輩がよくやっていたそんな事が如何に大事なことか、僕ら新米は一応にこの間接部部が実際にひび割れ、そこに潮水が沁みて激痛が走る経験をするまで分からなかった。

船は大西洋のど真ん中での漁が思ったほどにはよくなかったので、漁場をカリブ海に移した。カリブの海の色は今までのどの海よりも色濃く、正にエメラルド色だった。ここでは全長5mにもなる黒皮カジキが釣果の主だった。この魚に関してはヘミングウエイの「老人と海」によく描写されているので、参照してください。季節は7月になろうかとしていた頃だったとおもうが、船はとうとうCapeTwon以来の寄港を数日中にすることが決まった。場所はPort of Spainという港町でカリブ海諸島の最南端、南アメリカ大陸にくっつくようにある2つの島からなる国の首都だった。

その港へ入る直前の日に、垢シャツ、ヒラガシラ、猪鼻の3人はまたぞろ、新米をはべらしての酒盛りの準備を夜中の仕事が終わった頃から始めた。ぼくは兎に角疲れきっていて、とてもこんな連中につかまってられない、なんとか逃げる方法はないかと思案し、舳先のいかりを巻き上げる部屋に毛布を持ち込んで隠れるように寝入ってしまった。何時間眠ったのかあまりに疲れていたので覚えてないが、あとで聞けば、2時間はぐっすり寝入ったらしい。船の中が突然騒がしくなり、危険を知らせる船内ベルがけたたましくなり始めた。一体どうしたのかとのこのこ出て行くと、ドクターが大声で怒鳴りながら僕の胸倉をつかんで、「なんジャー、じゃんぼー、!お前が海に落ちたかも知れんゆうーて、皆大騒ぎしちょっでよー!どこいっちょたかー、このどあほー!」

ようやく事の重大さに気が付いた僕は皆に平謝りして回ったが、皆ようやく眠りについたときの突然の非常ベルに散々文句や悪態をつかれ、僕もすごすごと自分の寝所に帰ったのだった。事はそれでは終わらなかった。皆が寝静まってから30分位経った頃だろうか、ヒラガシラがやってきた。何か異様な雰囲気を感じて、イヤーな気になりながらスゴスゴトついていくと、さっきまでに正に自分がぐっすりと寝込んでいたそのイカリ部屋に連れて行かれると、そこには垢シャツと猪鼻が恐い形相で待ち受けていた。曰く「貴様のお陰で、わしらは船頭に目玉をくらったぞー!」「船ん中じゃ、誰かが落ちたら、そいつだけの問題で終わらんのジャー。付近におる僚船に連絡したり、色んなとこに迷惑かけるんじゃ-、このボケなすー!」と先ずは垢シャツの鉄拳が飛んできた。後は誰が誰やら分からないくらい適当に袋叩きにされた。最後のとどめは胃袋あたりへの強烈な蹴り、これは意識の薄れる中ではっきりとヒラガシラの憎らしげな顔がいまだにまぶたに焼き付いている。

明日はPort of Spainの港に入港するということで船が航海をしている日中、水公が一人日光浴を楽しんでいた。隣に座った僕の顔を見て、水公は「ジャンボ、おまえ、顔はどうしたんやー?」とあざだらけの僕の顔を怪訝そうに見て言った。かいつまんで説明し、僕は本題を切り出した。「水ちゃん、おれ、この船にいると何だか殺されるような気がする。夕べ一晩考えたけど、今度の港は海図を見ると大陸までわずか2kmくらいの海峡で隔てられているだけや。いっそ泳いで逃げようかと思うちょル。」それを聞いて、「ばか、ジャンボー、そんなこと、大声で言うな、誰がきいちょルかわからんでー。」そして、以外にも彼も同じ事を考えていることを打ち明け始めた。二人は互いの気持ちが一致していることに気分が高揚し、よし、こうなったら二人で南米に新天地を求めて旅立ちをしよう、ということになった。この計画は打ち沈んでいた気持ちを一気に払拭し、逆にこれこそ実は自分が子供の頃から憧れていた「世界を放浪する」ことを運命付けられていた一つの過程ではないかと、信じ込んでしまった。

 

20. 今回からの舞台はPort of Spain。前回送った地図を参照してくださいね。

地図で見ると、Trinidad島の西、地図上では左に行くと小さな島が点々とあり、細い岬が突き出しています。赤い丸でしめされていますが、その先に反対から突き出ている対岸の岬がVenezuelaになります。ここは”Dragon’s Mouth”(竜の口)と呼ばれるなんとも恐ろしげな名前ですが、それにはそれなりの意味があったことを後日身を持って知りました。もう南米大陸と地続きなのです。北緯10度、赤道まで直線で1000km弱のところにあります。我が盛秋丸は港内が補給の船で満杯ということでPort of Spain港の沖合い1kmに停泊させられた。陸まではサンパン(はしけ)で約10分かかる距離だった。

海図をしげしげと見つめていた僕は、さて、Trinidad島の西に伸びる岬の根元にある町Chaguaramasを指差し、とりあえず、この町までならバスかなにか有るだろうから、そこから岬の先までいけるかどうか偵察してみようと提案した。水公も同意し、二人は上陸許可が下りるや否や、町へ飛び出した。例の調子で、兎に角町の名前をバス停で連呼し、また紙に書いて見せたりして、Chaguaramas行きのバスに乗り込んだ。熱帯の島は今までの船上生活が嘘のように陽気で賑やかだった。いつも何処からかカリプソが流れ、多分レゲーなんかも有ったんだろうが,当時はレゲーなんて音楽を知らなかったので、カリプソしか思い出にないが,、何だか皆そんな流れ来る音楽にいつも体をゆすっているような、楽しげな雰囲気が僕らの気持ちをより高揚させてくれた。バスは止まるたびに物売りがやってきて、椰子の実やタバコを乗客に売りつけようとする。30分も走ったら終点の町Chaguaramasに着いた。ここはどうやら小さな港町。どちらかというとリゾートの雰囲気もあり、沖合いには島影に守られるように、ヨットやスクーナーが点在していた。この町から岬の突端まで行くバスはないことが分かり,どうしたものかとあちこち歩き回っていると港には何やらまるで放置されているような手漕ぎのボートが無造作に係留されている。二人は思わず顔を見合わせて、「ん、これで行こう」と確認しあった。決行は次の日の夜、互いに別々に行動し、夜8時にPort of Spainのバスターミナルで落ち合うことに決めた。

夕方船に帰った二人は、他の船員が夜の町に繰り出すのを見送った後静かになった船内で、自分達の身辺整理を始めた。といっても大したものはなく、ただ着る物と日記と大事にしていた写真と、お金は現地通貨で¥1万円相当くらいしか入ってない財布、それにパスポート代わりになる船員手帳。二人で作っていた鮫の顎骨の飾り物は捨てていくことにした。

その夜は二人ともまんじりともせずに朝を向かえた。夕方になるまで二人はほとんど口をきかなかった。先ず水公が6時過ぎに上陸した。僕は7時のサンパンに乗り込み、真っ直ぐにバスターミナルに向かった。そして、8時まで15分ほどベンチに座り、水公の現れるのを待った。色んな思考が巡っていた。一体金もなくどうやってくらせるのか、言葉はどうするのか、そうだ、自分は言葉が喋れないオシで通そう。最初は物乞いしてもいいや、とか、そんな取り止めもないことを考えているうちに気がついたら、8:30分になっていた。水公はまだやってこない。オカシイ。ここは町のほぼ真中、場所がわからなくなるはずがない。6時のサンパンに彼が乗り込むとき眼を交わしたが、ちょっと僕の視線を避けるような気がしたが,ヤッパリかなー、まあ兎に角最終バスまで待ってみよう。最終バスは9:30だった。9:25分まで彼は現れなかった。実はそのことは多少予期していたので、僕は一人でも決行する覚悟は出来ていた。最早振り返ることはせず、最終バスに乗り込んだ。Chaguaramasには10時丁度くらいについた。迷わず目をつけていた港の係留所まで行った。ところが熱帯の夜は暑く、夕涼みをする人が桟橋に十数人いた。とりあえず人が寝静まるまで待とうと、空のボートに身をひそめ、仰向けに寝転んだ。空には白鳥座と琴座とわし座のα星(各星座の一番明るい星をそう呼ぶ)が作る夏空の大三角が見事に輝いていた。穏やかな波の音、遠くに聞こえるカリプソの調べ。人々の語らい、何やら現実感のない雰囲気に、今から行おうとしている自分の無謀な行為が、まるで実感できなかった。

 

21. 僕は辛抱強く人々が桟橋から引き上げるのを待ちに待った。防水時計を見ると午後11:30分頃だったか、桟橋の一番突端に居る一人の釣り人を除いて、あたりはすっかり静かになった。ゆっくりと起き上がり、音がしないように舫い綱を解き、ソー−っと船を水上に押し出した。このまま漕ぎ出して、誰かに見咎められても嫌だなと考え、桟橋の影に隠れるように、沖合いまで泳ぎながら船を押し出して行こうと考えた。ただそうするには着衣のままでは泳ぐのはままならぬ。そこで裸になり、衣類はボートに投げ入れ、泳ぎ押しを始めた。熱帯の海は生暖かく、心地よくさえあった。岸から100mも離れると海岸の音はほとんどかなたにしか聞こえず、しかもほぼ漆黒の闇。安心してボートに乗り込んだ。しかし、海の中からボートに乗り込むというのは結構大変な作業だった。試行錯誤の末、ボートの最後尾から乗るしかないことがわかったが、結構あせったなー。裸のままボートを漕ぎ始めた。港を囲む堤防をぬけても波はそれ程大きくなく、全体に囲まれたようなこの海は矢張りボートで脱出するには最適だったわい、と少し安堵した。沖合いにはPleasure Boat(いわゆる個人が釣なんかに使うヨットくらいの大きさだが、エンジンがついてるやつ)が何隻も係留されていたが、出来るだけそれらを避けるように、沖合いへと漕ぎ出していった。岸から4,5、百mも漕ぎ出した頃だろうか、足のあたりが妙に水っぽい、というか、最初から少し入っていた底の水が、何だか少しづつ増えているような気がする。漕ぐのを止めてボートの中央部の底の部分をよく見れば、確かに浸水している。しかも、その浸水速度が増しているような気がする。これはやばいなー、どうしたもんか、水をくみ出しながらこれから3Km、4Km漕ぐとなるととても夜明けまでに対岸までつけないかもしれない、そんな事を逡巡していると、ふっと思い出した。さっき迂回したプレジュアボートの中の一隻に、船尾にディンギー(手漕ぎボートの大きさだが小さな帆で走るもの)が繋がれていたのだ。あいつなら、逆に漕ぎ疲れても、風を受けて走れるから都合がいいではないかと思い,そっとまたきた方向に引返し始めた。5分くらいで目的のボートに着き,いざそのディンギーの舫いをはずそうとしたが,どうも自分の乗っているボートからではうまくいかない、それで仕方なくボートから水の中に入り、泳ぎながら結び目にたどり着き、舫いを解き始めた。ところがこれがどうしようもなく硬い。正にプロがどんな強風にも吹き飛ばされないように結んでいるようで、全く埒が明かない。焦ってきた僕は兎に角力任せに結び目を近くの金具に叩き付け緩めていると、船内で物音がした。「やばいっ!」一瞬体が凍りついた。しかし12分息を止めていたがそれ以上の物音は聞こえない。このままではどうしようもないので、再度舫いを解き始めた。顔には脂汗が滲み、手は擦り切れてきたが、僕も必死だった。ところが船内の人間は息を潜めてこちらの出方を伺っていたものか、突然デッキから大声が聞こえる「Whos there!」今考えると多分そんな言葉が発せられたと思うが、「Who」という言葉だけは、はっきり聞き取れた。

(余談になるが、僕がアメリカに行って、比較的、人より早く英語に慣れた背景には、こんな状況での切羽詰ったコミュニケーションの中での言語感覚の積み重ねが大きな助けになっていたのかもしれない。今考えると、これに近い状況はインド旅行中にも何回かあったような、、、)

さて、今度ばかりは文字通り心臓が凍りついた、本当に息苦しさから心臓の鼓動が船上の人間に伝わるんじゃないかと思えるほど、体中を共鳴箱のように振動した。次の刹那、僕は正に生まれて初めて本物の銃声を耳にした。「ばーっん!」

 

22. ところで、皆この話は結構脚色されてると思っているでしょうが、事実はもっと色々有った、それを少し端折っていると言っていい。兎に角全部を思い出すことも不可能に近いし、また、それを全部書き切れるわけでもない。

 

Chaguaramasの港(A地点)、目指す目的地Venezuelaの岬(B地点)、盛秋丸係留地点の位置関係は添付の絵のとおりです。この位置関係を一応念頭に読み進んでくださいね。

 

さて、銃声を聞いた瞬間とりあえず身を氷のようにして相手の出方を見守った、どうやら一発目は空に向かって発砲したようだ。「どうしよう!」船主は銃口を水面に向けて、こちらの様子をうかがっている様子が星空をバックにしたシルエットで浮かび上がる。とりあえず、潜って、船の反対側に行き、船から遠ざかろう、そう考え、出来るだけ水音を立てないように、胸一杯空気を吸い込むや、潜水を始めた。しかし潜った瞬間思考が巡り、もし今船主が船のエンジンをかけたら、巻き込まれてしまう、そう考えたらぞっとして、兎に角息の続く限り深く潜り、かつより遠くへと足を蹴り続けた。多分一生でこんなに息苦しい潜水をしたのは、後にも先にもこの時だけだ。といっても、せいぜい1分くらいなもんだろう。顔を出すときも音を立てないように兎に角細心の注意が必要だ。しかし1分も潜っているとどうしても死に物狂いで息をついてします。案の定顔を出した途端、反対側に居た船主が慌ただしくこちら側の甲板に回りこみ今度は海面に向かって3発発砲した。1発は確かに左耳をかすめた気がした。これはたまらん、とばかり、再び潜水。再度息を継いだときは船から多分有に100Mは離れていたろうか。今度はどうやらエンジンをかけて追いかける雰囲気だ。いや、違う、先ずは僕が乗り捨てたボートを追いかけ始めたようだ。そのボートは潮に流され沖合いへ半分浸水した状態で遠ざかっていく。よく見ると僕の着る物は既に水浸しになり、海の中へ流され様としている、点けられた船の明かりでそんな様子が遠眼に窺えた。最早ここにうろうろしていてもしょうがない、兎に角今来た岸へ泳ぎ戻ろう、そう考え、静かに岸へ向かって泳ぎはじめた。岸までは15分くらいで泳ぎ着いたが街灯の点いた桟橋や船着場に裸で上陸するわけにはいかないので、近くの椰子の木が密生する砂浜に上陸した。そして、膝を抱えて考え込んでしまった。さあー、どうしたもんだ。無一文、丸裸、、、、時計を見ると午前1時前。先ずは何とか着る物を手に入れよう。そう思い、近くの人家に近づいて洗濯物が干してあるような家を物色した。

 

ところで僕は人様の物に手を出すといったことは性格的に昔から絶対に出来ないタイプ。つまり思春期の頃でも単純な万引きとか本のただ読みとかが全く出来ないタイプ。でも、この裸の状況ではどうしようもない、何とか着る物を手に入れるしかない、ただそのことに必死になって探したが、何処にも着れそうなものが見つからない。夜中とはいえ車は時折通り過ぎ、その度に身を隠ししているうちに、人のものを盗むという行為に嫌気がさし、また元の浜辺に戻ってきた。叢に隠れながら、再びどうしたものか考えながら沖合いをじっと眺めていた。そして辿り着いた唯一の結論はみんなの寝静まった盛秋丸に泳ぎ返り、服を手に入れ、お金を再度借り受け、明日又再決行するということだった。「懲りない、、、」なんて言葉があったけど、この時点では僕の頭には諦めは全くなかったな。バカというか、何と言うか、自分ながらあきれ返るよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

23. 前回の地図で上向きの赤い矢印で示したのはその時点での潮の流れる方向を示しています。泳ぎ始めたChaguaramasの海岸から盛秋丸までは距離にして約3Km、ぼくは泳ぎは得意なほうだが、遠泳というものはまだ一度もやったことがなかった。それまでの経験ではクロールで50mやっと泳ぎきれるかどうかだったが、平泳ぎだったら1、2時間位はOKだろうと目論見、兎に角泳ぎ始めた。平泳ぎの50mのゆっくりタイムが1分半、ということは、距離が3Kmとして1時間半も泳げば船に泳ぎ着けると読んでいた。しかし今考えたら何とも無謀な話だ、せめて木切れでも持って泳げばよかったものを、ここは船までとりあえず泳ぎ返るしかないと思い込み、それ以上は熟考せずに見切り発車をしてしまった。そして1時間、船の方向へ泳ぎ始めたが、一向に船溜りに散見する船の姿が大きくならない。ふっと振り返り見ると、自分が泳ぎ始めた海岸がすぐ傍に有るように見える、そんなバカな、俺はもう一時間も泳いんデいるんだぞー、と心に叫んでみたが、現実は多分500mくらいしか岸から離れていない。その時点で冒頭の「潮の流れ」に気がつかないところが、何とも間抜けな話だ。この潮の流れは、後で聞かされたことだが、潮汐、つまり一日2回方向が変わる、そして、この時点での潮は正に僕が泳ぐ方向と真反対だったわけ。しかも、例の「Dragon's Mouth」ではこの時間帯には有名な渦潮(丁度鳴門の渦潮のように)が逆巻いている頃だったらしい。少なくとも泳いでこの海峡を一度は越えようかと考えていたわけだが、もしそんなことをしてたら、今ごろは、、、、僕は一瞬、もと来た海岸に引返すことを考えた。だけど、1時間泳いで来たということはまた1時間かけて帰ることになる、そんな体力が残っているはずもない、この時はホントに「潮の流れ」という概念は全く浮かんでこなかったなー。それから更に1時間泳ぎ進んだ、そして、海岸線を振り返ってみた。確かに以前より遠くになっているが、距離にして2,3百mくらいの違いにしか見えない。その感覚が正しいのか否か最早判断する力はなかった。船までの距離で言えば全体の3分の1くらいの気がした。少し泳ぎ疲れて、あお向けになり、ぽっかりと浮かんで空の星を眺めた。空に南十字星がきらきらとまばゆいように輝いていた。本当に綺麗だと思った。自分が生と死の境にいるという現実感覚は全くなかった。漆黒の闇に何か途方もない「生き物」がいる気配はあったが、だからと言って恐いとは思わなかった。実際この海域は鮫が相当いたらしい。気を取り直して、再び泳ぎ始めた。時折誰かに伴走されているような気がした。多分イルカだろう。鮫だったらそれまでだ。そして、3時間目が過ぎた頃、気持ちの中に諦めが出てきた。もういいや、どうせ船に帰ってもまた地獄の日々が待っているんだし。でも溺れるのは苦しいのかな、、苦しいのは嫌だなー、それからは10分泳いでは、仰向けになり浮かび休みを5分し、という風に兎に角泳ぎつづけた。腕にしている防水の腕時計がまるで5Kgくらいの石をぶら下げているように感じられ、海に投げ捨てた。(余談だがそれ以来僕は人生で腕時計をしたことがない)水平線に下弦の月が上り始めた、多分形からすると23夜月位だ、ということはもうじき夜明けだ。夜が明けてから裸で船に辿り着いたとして、一体なんて言い訳したらいいんだろう。そして、自分の人生を考えてみた。死ぬ前に人は自分の一生を瞬時思い浮かべると聞いたことがあるが、頭の中には正直言って何の感傷も浮かんでこない。自分の選択への悔いもおきないし、感慨も、慨嘆も何もない、あまりに疲れすぎて、思考が働いていなかったのかもしれない。そしてまた1時間くらい泳ぎ続けた頃、夜が白み始めた。見ると船溜りが思いもかけずかなり近くに見える。実は潮の流れが丁度この頃反対方向に変わろうとしていたのだ。Panama船籍の貨物船に阻まれて向こうが見えないが、盛秋丸はあの向こうにあるに違いない。僕は最後の力を振り絞って再び泳ぎ始めた。そして、貨物船を迂回してみると其処から100mくらいのところに本船は停泊していた。正に朝日が昇ろうとしたとき、僕は辿り着いた、だが喫水が高く、とても甲板には上れない。ここまで来てこんなところで溺れてなんになる、船には必ずナイトワッチャー(寝ずの番、交代で夜警をする当番が必ず起きていなければならない)いるはず、とみていると、プリッジに佐伯さんの顔が見えた。僕は大声で「佐伯さーん!」と叫んだ、叫んだつもりだった。実際に出たのは、かすれた弱々しい声で、とても声とはいえないものだった。気を取り直して再び叫んだ、今度はどうやら耳に届いたらしい。佐伯さんがタラップを下りて来た。「誰や!」くらい海面を怪訝そうに見ながら、「なんやー、ジャンボやないかー!、どないしたんやー、寝ぼけて海に落ちたんか?!」それを聞いた僕は、そうだ、そんな言い訳があったわい、と思い、「すんませーん、!はしごをおろしてくださーい!」手に力は全く入らなかったが、なんとか甲板まで這い上がったが立ち上がろうとした途端、へたり込んでしまった。まるで自分が空気の抜けた風船人形のようだった。全ての筋肉が力を使い果たしたとは正にこのことか。

 

24. いやー、先週は書きすぎてちょっと虚脱状態になりました。また、気を取り直して、書きつづけましょう。

 

さて、Port of Spainを離れた船は漁場をメキシコ湾に移した。カリブ海とメキシコ湾は繋がった海にも拘らず、海水の色がまるで違っていた。ここでは竜巻を何度も目撃した。当然レーダーである程度の進行方向は予測できたので、すぐ傍まで行くことは先ずなかったが、最も近くて、5kmくらいの距離で目撃したことがある。太い水柱が空に垂れこめた雲に巻き上げられ、吸い上げられた水は四方に撒き散らされるような感じで、とてもSpectacularだったのを思い出す。また元のように漁は始まったが、漁獲高はあまりよくなかった。先輩の虐めも相変わらずだったが、この頃はもう既に虐められることに半ば麻痺していたようなきがする。当時の記憶がほとんどない。ある種の虚脱感で、心を閉ざすことで、生き延びようとしていた所為かもしれない。僕の脱出行を知っていたのは水公だけだと思っていたら、ある日の昼休み機関長が突然やってきて、にやにやしながら「やい、ジャンボ、わしゃー知っちょぞー、お前が逃げようとしちょったこつは。」 ぼくは一瞬背筋が寒くなった。もしこんなことが船中に知れ渡ったら、またどんな苛められ方をされるかわかったものじゃない、と。「心配すんな、船ん中でシッチョンのはわしだけじゃき。」 しかし、機関長は恐い人だと思った。本当に色んな事をよく見ている。ある時明日は適水というとき、酔っ払った冷凍長が2等機関士にからんで、若い2等機関士から殴られたことがあって、明け方冷凍長はその2等機関士を冷蔵庫(といっても船員の3か月分の食料を貯蔵するために、10畳敷位の広さがる部屋だが)に呼び出し、差で喧嘩を仕掛けたことがあった。冷凍長は出刃包丁を隠し持って、単に脅すだけだったらしいけど、売り言葉に買い言葉で、その出刃包丁を相手の太ももにつきたてたことがある。適水の時は皆昼まで寝ていて、早朝に起きだすのはぼくくらいなもの。その僕は実はその冷蔵庫に潜んでいた。何故かって、それは食いしん坊の冷凍員佐伯さんが、羊羹を何箱(1箱に50本くらい入っているような箱)も日本から持って来ていて、その羊羹をくすねるのが当時の数少ない楽しみだったから。ぼくは影から喧嘩する二人の様子を息をひそめてみていたが、あまりの事の成り行きに、一体どうしたものかと冷蔵庫の中に居ながら、脂汗がでてきた。

とそのとき機関長が冷蔵室のドアを荒々しく開き大声で「とめさん!(冷凍長の名前)やめんかい!」、その声で正気に戻った冷凍長は出刃を取り落とし、自分のしたことに呆然としていた。機関長は2等機関士の膝に突き刺さった出刃を無造作に引き抜くと、崩れ落ちようとする彼を抱きかかえ、ドクターの部屋へ運び込んだ。その日の午後、また機関長がやってきて、「ジャンボー、今朝のことは誰にもいうなよ。」と半ばすごむように言うのだった。ぼくが冷蔵庫に忍んでいたことなんて周知の事実だといわんばかりに。

船員達のフラストレーションは航海が半年も経つ頃は頂点に達していた。これで、漁果がよければまだしも、兎に角上がるマグロは30Kg前後の小物ばかり、しかしこのメキシコ湾まで来てしまった以上今更別の漁場に行くわけにもいかず、船頭もかなり頭を痛めていたようだ。皆の不満は船頭に直接向けられることはなく、我々新米に向けられるのが常だったが、正直言って航海7ヶ月、8ヶ月頃の記憶は本当にぼんやりとしかない。

そんな皆のフラストレーションが頂点に達している頃、7月の下旬、本船で航海始まって2度目(1度目は勿論僕の件)の非常ベルはその日の操業が終わり、ほとんどが寝入って15分くらい、夜中の1時10分に鳴り響いた。

 

25. (あー、今週はホントに忙しかった)

 

ボースンが皆をたたき起こしていた。「おーい、皆!起きろー!、水公が居るかどうか船中捜すんじゃー!」 その晩水公は本船に帰るとまた苛められると思い、魚艇に留まり、夜を明かす予定だったのを僕は思い出していた。本船にいるわけないじゃないか、ということはあいつは落ちたんだろうか。そんな考えがよぎった。深夜の海に落ちると助かる見込みは万に一つ。急いで上着を着て甲板に出ると、既に先輩船乗り達は、電気のつくブイを何個も用意して、海に次から次に投げ込んでいる。何をしたものかとウロウロしていたら機関長の怒声が飛んできた、「どんくさいやっちゃのー!おのれは!はよー、船中の居そうなところを探し回らんかい!」無駄だとはしりながら、僕は駆け足で舳先のほうから探し始めた。胸が重苦しく、心臓がドクドクと音を立て始めた。頭の中を色んな思いが巡り始めた。突き落とされたんじゃなかろうか、いや、あいつはドジなところがあったから、トイレに立ったときに足を踏み外したに違いない。魚艇には今日は艇長と彼しか居なかったはずだし、艇長が突き落としたりするはずがない。ところで、魚艇は航海中は長い舫い綱で本船に引っ張られて曳航する。だから直接には本船から魚艇が見えない。その舫いがはずされ10分後に魚艇が本船に近づいて来た。舳先で艇長が何か叫んでいる。横には何故か垢シャツがいる。あれ、いつの間に魚艇に乗ったんだろう。どうやらサーチライトを照らして海面を探せといっているらしい。ボースンはすぐにデッキの最上部に据えつけている4機のサーチライトのカバーをはずさせ、一斉に海面を照らし始めた。その頃にはもう大勢が船の最上部に出て海面に眼を凝らし始めた。下では人かが縄で繋がれた浮き輪とビン球とブイを次々に投げ入れつづけていた。勿論その晩は誰も一睡もしなかった。翌朝からは3班に分かれ、仮眠を取りながら24時間体制の捜索が始められた。1日、2日、そして1週間、近所で漁をしていた他の鮪船8隻、航海中の貨物船3隻、メキシコの沿岸警備艇4隻が捜索に加わっていたが、なんの手がかりもないことから、捜索は打ち切られた。僕らの船はそれから更に1週間探しつづけた。そして、またいつも通りの漁に戻った。誰も水公のことは口にしなくなった。あの垢シャツでさえも、何故か僕らを苛めることをぴたりと止めた。

それからの1ヶ月の漁は、本当に重苦しかった。僕の記憶の中でもある種の空白期間だ。虐めがなかったことだけは覚えている。ヒラガシラは無神経なことを言いまわっていたような気がする。

それから更に1ヶ月、船は3度目の寄港の為にパナマ運河のカリブ海側の港町、クリストバル港に入港した。僕は一度果物を買いに上陸したが、ほとんど船の中で過ごした。頭の中はあの日から空白だった。何も考えられなかった。仕事をして、ヘトヘトになっているほうが良かった。

そんな僕を救ってくれたのは2等機関士の坂本さんだった。

 

26. 2等機関士の坂本さんは、船の中で唯一英会話の出来る人だった。かれが膝を怪我して(例の殺傷事件で)しばらく仕事を休んでいる時期があったが、そのときたまたま食事を届けて、話し始めたのがきっかけだったが、部屋には面白い本がずらりと並んでいた。それは吉本隆明や埴谷雄高、高橋和己なんかだったが、これらを読む人間がこの同じ船に居たなんて、ちょっと感動ものだった。当時の僕は多少頭でっかちで、船に持ち込んだ本も大江健三郎とか安部公房で、この手の本を読む人間が同船しているなんて想像ダニしていなかっただけに、その日からは暇さえあれば坂本さんの部屋に遊びに行くようになった。分かっても分からなくても、彼と文学論を交わしていると、他のこと、船の仕事の辛さ、を忘れることが出来た。まして、水公のことはまるで心に鉛のよろいをまとわせられているようで、考えまいとしてもいつも重苦しく心を締め付けていたけど、坂本さんと異次元の話をしているときは少しは開放された時間を持つことができた。

そんなある日、ある適水の日の夜中多分3時ごろ、坂本さんが僕をこっそり起こしに来たことがあった。ひそひそ声で「ジャンボ、ちょっと、来てみー、」こっそり連れて行かれた場所は、先輩船員の寝台がある部屋だった。そこは冷凍員が4人一組で寝起きしている部屋だが、その時は何故か垢シャツが一人寝ているだけだった。他は賭け事に熱中しているらしかった。その垢シャツが呑んだくれて酔いつぶれ寝入っている様が、その吐く息の臭さから伺えたが、何か物凄く悪い夢を見ているらしく、脂汗を額に浮かべ、うなされ続けている。「じーっと、聞いてみな、ジャンボ」よーく聞いていると、どうやら、「スイコウー、スイコウー」と言っているように聞こえる。部屋に戻った後、坂本さん曰く「考えたくないが、あいつがやったんは、間違いなかろう」僕は何だか背筋が寒くなった。畜生!、なんてこった!、、、その夜はまんじりともせずにすごした。

 

漁は芳しくはなかったが、それでも船の喫水は少しづつ確実に満杯の線に近づきつつあった。10月も終わろうとしている頃、漁の最終日がやって来た。メキシコ湾での漁は鮫の鰭のほうが豊漁だった。先輩の話ではこのアルバイト料が多分この調子では一人5万円は固いとのこと、50人が5万円ということはあれだけの鮫のひれが20万円にもなるのかと驚かされた。といっても皆にはその具体的な量はわかるはずもないが、、、帰りはパナマ運河を通って、太平洋から、一路清水港に向けて航海することになった。

パナマ運河を通るときはちょっと興奮したな。本で読んだ世界が正に眼前に展開している、そんな感動だった。運河の出口の町で最後の給油をかねた上陸をし、船はいよいよ日本へ向かった最終の航海に入った。計算では32日間かかるとのことだった。パナマを出たのは112日だった。そして富士山が見え始めたのが、124日、その1日後に船は清水港に帰りついた。文字通り世界一周の船旅をさせてもらったわけだ。

 

27. 10ヶ月振りの日本は思えば随分狭い島国に我々は暮らしているもんだといった感慨だった。船で地球を一周しただけだが、帰ってみると、何か日本の島国を真上から見下ろし眺めたような感興を覚えた。しかし世界を巡ってきたとはいえ、それは単に地理的な移動にしか過ぎず、実は我々はもっと狭い空間、わずか1000平米の船上に閉じ込められ、喚き、苦しんでいたに過ぎなかったのだ。漁は期待ほどではなかったとかで、最初100万円くらいは手取りでもらえると言われていたが、手にしたお金は63万円。だが当時の初任給が3万円程度であったことを考えれば、これは相当な大金であった事は間違いない。陸(おか)に上がって先ず最初にしたことは、銭湯に行って心行くまで船中での垢をこすり落としたことだろうか。真水の風呂に入って文字通り全ての滓をながしたような気分だった。 全ての船の仕事が終わって解散になるまで約10日間かかったが、その最後の日、皆に別れを告げ、僕はとりあえず九州の田舎に帰ることにした。船から荷物をまとめて駅へ向かったが、その時大事な忘れ物をしていたのに気がついた。それは水公と二人で作った鮫の顎骨の飾り物だった。二人とも舳先の錨部屋を作業場にしていて、其処に置きっ放しにしていたのだった。船の中はほとんど片付けられていたが、幸いにも我々の「作品」は捨てられずに残っていた。僕は二つの作品(?)を袋に丁寧に包み船を下りようとしていたら、丁度其処へ50代の男と、20代の女性が、ボースンの案内で船に乗り込んでくるところだった。僕はすぐに二人が水公の父親と妹であると分かった。胸に熱いものがこみ上げてきた。水公は妹へのお土産に、この作品を仕上げようとしていたんだ、と思い出し、二人に無言で挨拶した後、「これは、彼が妹さんの為に一生懸命作ったものです」と言って差し出した。上げたのは実は僕の作ったほうだったが、水公のやつは、干からびた肉が異臭を放っていたので、少しでも見栄えが良いほうがいいかな、と思ったためだ。そして、二人が声を出す前にそそくさとその場を立ち去った。何故そうしたのか、電車の時間がなかったからというのは言い訳でしかない。今考えてもよく理由がわからない。僕には二人に詳しく話す義務があったと思う。でもその勇気もエネルギーも、そのときはなかった。兎に角一日も早く清水を離れたかった。大阪にいる友人と会うために乗った列車のなかで、色んな事を考えていた。清水を出て一時間くらいした頃だったか、突然前日ボースンがやってきて話したことが思い出された。「どや、ジャンボ、もう一航海せんかー? 今度はちょっと小さい船で、航海も多分半年くらいじゃ。」 その時は無条件で断ったが、今電車の中で色んな思いを巡らせていると、「うん、もう一航海やってもいいな。」という思いにとらわれはじめるのだった。しかし、ぼくにはやることがあった。それは稼いだ金で、念願のインド旅行に行くことだった。結局僕は心の中で水公とのけじめをつけることなく、自分の欲望を優先させて、今日現在まで来てしまった。矢張りあそこではもう一航海行き、きっぱりと水公に別れをつけてくるべきだった。今回みんなの後押しでこのように書き綴ることが出来て、心の滓が消えていくのを感じる。

先日盛秋丸の社長にお会いする機会に恵まれ、色々写真などをみせてもらったとき、僕は思わず泣き崩れていた。止めることの出来ない嗚咽は、自分の肉体的辛さの記憶が甦ったからではなく、全て水公への思いだったのが今改めて分かる。山本社長、本当に写真有難うございました。物にこだわりのない僕ですが、頂いた写真は一生手放さないでしょう。また、頂いた名簿から4人のかっての同僚と連絡がとれ、その全員と電話で2度3度話しました。互いに話はつきませんでした。4人が4人様に当時の記憶をもっていましたが、一致したのは、自分達の一生の中で(勿論まだ道半ばとはいえ)あの船上の10ヶ月は一番密度の濃い、後の10年、20年に匹敵する時間が凝縮されていたような思いです。出来ればこの5人で今年中に同窓会を開きたいということで計画中です。残りの4人の行方は全くわかりません。時間とお金の余裕が出来たら、興信所にでも頼んで探してもらいます。やっぱり全員に会いたいです。 一番会いたかった島やんは独身で今は田舎に帰って自分の会社を経営しています。渡久地は生涯独身で母親と二人暮し、南風里は二人の子どもと両親、奥さんの6人家族で沖縄に住んでいます。石丸(ホテイ)は四国の実家のあった近くで矢張り一人身で母親の面倒を見ている由。そして、坂本さん。実は苦い思い出があって、結局連絡しませんでした。清水に帰ったとき、僕は考えてみれば結果的に5万円を彼に借り倒されたのでした。一番信頼していた人に騙されたという事実は悲しいです。

---終わり---